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"学ぶ"ことは"生きる"こと

僕は服なんてセールで売られているもので充分だ。

僕が最新の服を着ていようが少し遅れた服を着ていようが、どちらも指摘されたことは人生で一度もないからだ。

人は人を見ているようで、全く見ていない。

そして、僕は割引の計算がそこそこ速い。

「これは3割引だからだいたいこれくらいの値段になる」

少し複雑な値段設定スタートでも、こんな感じで喋りながら値引き後の値段に辿り着く。

数学を得意としている人にとっては普通のことかもしれないが、僕にとって数学はむしろ苦手な科目に近い。


「数学のこんな方程式を習得しても、大人になって使わないのに」

というのは認識違いで、実は生活のあらゆるシーンで無意識に当時習った方程式を使って物事を計算しているらしい。

人生設計を立てるのにも計算が必要だ。

思っていた方向性から少しずれることがあれば、また新たな計算のし直しをすれば良いだけ。

誰に憧れて自分の仕事の方向性を決めるのかも、何かの方程式を使っているのだろうが、前述の通り数学が得意ではなかったので、具体的な説明はできない。

「計算高い」というのは、「数学ができる」と同等の、むしろ褒め言葉なんだ。

中学の頃、学年の各クラスに一人二人は不登校になる人がいた。

気がつけば転校していた人もいたが、どうやら町内に留まっていて、その上で学校に来ていない人は一人で家で勉強しているのかなあと勝手に想像していたが、指導者なしには思うように進まないだろう。

独学で立派に習得できるような生徒は、そもそも学校に通えないきっかけを作らないように計算することができる。


みんなが無意識に計算して、居心地の良い社会を自然に作ったり、良くない場所とは関係を断つようにしていけば、みんなが過ごしやすい社会としてのベースアップが図れるだろう。

そのために、何歳からでも良いから学ぶことは必要だ。

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