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読了◆表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬

この国の価値観から離れ、違う価値観を見たい。
灰色の街から逃げるように、キューバへ向かった。

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』
お笑い芸人 オードリー 若林さんの紀行文。

若林さんの著書を読むのは3作品目で、これは夏ごろに単行本を読み、今月文庫本を購入し、新しく書き下ろされているところも含め再読した。
若林さんとわたしでは全く似ていない環境で状況なのに、なんでこんなにもおもしろく、「わかる」が多いのか。

人を判断する言葉で埋め尽くされていて、その中でも「協調性」と「自分らしさ」を求められる。かわいくて、知識があり、給料も要領も良く、センスも良くないといけない。こいつは「いけてない」「負け」。そんなレッテルはすぐに貼られる。意識しているのかもしれない、社会がそれをつくっているのかもしれない。ああ、生き辛い、言葉にしなくても無意識に感じることがある。
その部分が主に「わかる」に繋がったのかもしれない。

読後、気づいたら、息の仕方を忘れていた。
慌てて大きく息を吸い込んで、大きく肩を上下にしながら、ぼやける視界が正常になるのを待つ。ふうぅーーーっと大きく息を吐く。
ファストフード店の窓側に一列に並ぶような席。向かい合わないように前の人に合わせて座るから自然と前を向いたら背中だけが見える状態。後ろの人、わたしが急に肩を大きく上下にさせたの気づいたかな。
いや、そもそも見てないか。
マスクしていて良かったなんて、普段の生活で思ったことないけれど、顔の半分を覆ている防御服に感謝した。だって見られてたら気味悪がられるかも。
あ、そもそも見てないよな。

いつの間に、職業で、給料で、会社で、人を見てしまうようになっていたのか。会社に所属する形態で人を判断したり、哀れんだりするようになっていたのか。それはわたしの根本的な考え方に欠陥があるのか。社会がそうさせているのか。幼いころから耳にしていた「勝ち組」「負け組」という言葉。今だとそんな言い方は聞かないようになったけれど「カースト」「スペック」「マウント」とか異なる言い方で人を判断するようになった。
判断するっていう時点でこの世の中は根っからの競争社会なのだろう。
10代のころ、あまり気持ちの良い言葉ではないなと思っていた言葉を、考えを当たり前のように何の疑問を持たずに行うようになっていた。そしてふと気づく。ああ、嫌な考え方。でも離れることはできない。だって、勝っていたいから。底辺になりたくないら。ああ、なんて低俗な考え方。そしてまた繰り返す。この違和感からは逃げることなんてできないのかな。難しいのか。
10代のころから、いや、ランドセルを背負っていたときから「カースト制度」の三角形に知らぬ間に在籍していたのだから。

その時、その場所、その状態で生き辛さの対象も度合いも理由も異なる。
でも生き辛さはずっと近くにいたように思う。気づかないようにしていても、たまに顔を出してくる。「大丈夫」というパワーワードでバリアをはっていても、ぬるぬると隙間を見つけて入ってくる。生き辛さから逃げられることってなかった。
でもそこから救ってくれるものがある。


それは「血の通った関係」と「没頭」だとこの中(あとがき)で若林さんは言う。

“血の通った関係や、勝ち負けが届かない次元にある仕事や趣味”。
今、もしかしたら眠っているだけかもしれないけれど、見つけたいなと、この本を握りしめながら思った。

ただ文字が並んであるだけなのに、言葉が生きていた。
だからかな、生活のそばにいてほしいと思うのは。


今日は土曜日です。
そう、オードリーのオールナイトニッポンですよ。
ぎりぎり間に合うな、セーフ!

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