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魚介類に納得がいかない話

 魚介類があんなに美味しいのは違うと思うのだ。
違う、というのは何かこう道理に反している気がしてしまうということだ。魚介が美味しいという事実にどこか納得がいかずモヤモヤとした気持ちがある。
魚介類、言わずもがな煮て食うも良し焼いて食うも良し、それどころか火を通さずただ切っただけでも美味い。川のものでも海のものでも基本的に美味い。

 家畜と言われるような牛豚鷄の肉が美味い、これは理解できる。
家畜というのは元は野生に生きていた動物を人類が食物や労働力など生活に有用なものとして利用するため飼い慣らし品種改良をしたものだ。
4000年〜5000年前の古代エジプトの壁画にも家畜化された牛が描かれていたらしい。
長い歴史のなかで少しでも食物として美味しく、労働力として強く頑丈にそういう風に少しずつ改良されるのが家畜だと認識している。経済動物である以上、そこには商取引の上での価値というものを背負わされている。市場経済において少しでも価値を持つように、言うなれば美味しくなるように品種改良され、環境を用意され育てられたものがわたしたちの口に入る。
そういった状況下に置かれた家畜という生き物の在り方に賛否はあるのだろうけれど、わたしを含む多くの人が肉を食べているはずだ。肉を食べることの出来ない生活など想像付かない。
何を食べる食べないは人の自由であるし、その信条や思想、あるいは体質に従えば良いと思う。今後の人生でわたしが肉を食べないという選択をする可能性だって否定できない。

 しかし今まで肉を食べて生きてきた。理由は一つ、美味しいからだ。
しかし、魚介が美味しいということにはまだ納得がいっていない。あいつらは美味しくなる努力をしていない、にも関わらず美味しいからだ。
海や川で肩肘張らず、あるがままに生きている魚介が何故美味しいのか。
大自然で生きている魚介に品種改良などあるはずもない。何かしらの管理下で美味しくなるように育てられたという訳でもない。
養殖、というものもあるが一般的に天然の方が良いものとされている。価格も高い。
ナチュラルボーンの美味にわたしは釈然としない。
強豪野球部に昨日まで帰宅部だったやつがふらっとやってきて170キロ投げて帰る、これくらい釈然としない。いや、この程度ではまだ自分の中のモヤモヤが表現しきれていないとさえ思われる。昨日までハイハイで移動していた赤ん坊が突然つかまり立ちしたと思いきや、100mを7秒で走る。これくらいの釈然としなさだ。

 食肉にも家畜とジビエがある。
しかしジビエに関しては家畜という存在ありきで、それと比べる形で価値があるように思われる。
家畜という安定的かつ美味しい食肉があるからこそ、ジビエには希少価値が生まれている。
天然の魚介とはまた何か価値が違うのだ。

 この腹立たしさは色々なジャンルにおいての努力と才能という二元論的な考え方が根本にあると思う。才能と呼ばれるものに無意識なコンプレックスがあるが故に着の身着のまま自然体で美味しい魚介が憎たらしいのであるような気がする。
まさか魚介にコンプレックスなど抱かなければならないとは思ってもみなかった。まぁ、結局のところ美味ければ食うだけで難しいことを考える必要もないのだけれど。

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