ハイダルが、たとえば父に意見していまの生活を、つまり妻のムムターズが外で働き自分が主夫として家の仕事をするといういま暮らしを続けることを主張していたらどうなっていただろうかと考える。やはりその場合も、ラナ家は、つまりそれまでの"伝統的"な家としてのすがたは早晩崩壊しただろうと思う。 社会にまだどれほど伝統的価値観が幅を利かせていたとしても、人びとはもう皆スマートフォンを持ち、インターネットにアクセスし、別の社会、別の価値観、別の生き方をする人びとがいることを知っている。知
『aftersun/アフターサン』 大人になったソフィの姿は全編中にほんの数カットしか登場しないが、その姿と表情はとても幸福そうには見えない。たぶんだから彼女は昔のホームビデオを見ることにしたのだろう。そこになにかが映っていることを期待したわけではなく、ただ昔の一番いい旅行の思い出に浸ろうとして。しかし、彼女はビデオの中の父親のすがたと言葉に、子供の頃には見えなかったものを見たのだろう。カラムの意識が旅行中すでに死と生の世界の狭間にあったことを、ソフィはビデオを通じて知っ
オールタイムベストアニメーションムービー。当時映画館で観て、冒頭の裏路地のシーンだけでその映像とサウンドの迫力と緊張感に度肝を抜かれたことを今も思い出す。 人格、意識、ゴーストと身体は不可分なものであり、たとえばある人の脳だけを取り出して別人の身体に移植できたとして、その人の意識が前と同じに保たれることはあり得ない。意識は身体からもたらされるあらゆる感覚、刺激、情報から組成されるものであり、脳はまさしくその情報の中央処理装置ではあるけれど、ゴーストは生物の脳を含む身体全
日本のいちばん長い日(1967年) 『ジャーヘッド』を思い出す。メタファーでもなんでもなく、相手に弾をぶつけて征服するという意味合いにおいて、男にとって戦争とセックスはほぼ同じものだ。自分はセックスを征服行為だとは思わないが、そういう捉え方をする男もいる。 軍隊は敵を征服するための組織であり、敵がいよいよ目の前(本土)に迫ってきてやっと戦争だ!というところでまさに寸止めされ、戦争はもうやめだ、ズボンをはけ、銃を降ろせ、発射はなしだと言われ、征服という快楽の瞬間をひたすら待
勝手にしやがれ(1959年) Youtuberの動画みたいな映像だ、と思った。 ジャンプカットと呼ばれるこの編集テクニックはゴダールの本作品においてスピーディで斬新な演出として映画の革新をもたらしたという。確かに、それまでの映画がバッチリと決まったセットとセリフで組み立てられる舞台演劇の延長上のものであったとすれば、この特にテーマも、ストーリーとよべるものさえほとんどない本作は、演劇では作り得ない、映画でしか表現できない作品だ。 映画史的に重要な作品だということはわかるが、
ラザロは誰も騙さず、誰にも逆らわない。ゆえに誰からも軽んじられ、それでいて、疎まれ、疑われる。誰ひとり、ラザロの誠実なまなざしを正面から受け止めることができない。顔を逸らし、顔を逸らしてしまう自身の恥に耐えられず、いっそうラザロを蔑む。人間の聖性の実体化としてのラザロの存在は、しかし一方で誠実さというものから程遠い暮らしをしている人びとの心を、きわめてわずかづつに、清めていく。貧しく、傷ついた元村人たちが、壊れた車を押しながら未来への希望を抱く終盤のシーンは『リトル・ミス・サ
ほかのあらゆるものをなげうって、ひとつ物事に取り組まなければいけない。そうしなければ価値を認められるものは生み出されず、この世界に存在を認められ生きる権利を得ることはできないという強迫的な価値観が、まあそれは時代にかかわらずのものだと思うけれど、それにしても今この最近はゆきすぎて幅を利かせているのではないかと思うことがある。ウマ、アイマス、後藤ひとり。炭治郎君もそうかも。他人から引かれる程度にはのめり込んでいるけれど、他事にはいっさい脇目も振らないというほどの狂気的な情熱でも