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読書録【夜と霧】

この期間にこそ読むべき本、と、twitterで言及されていたのを見かけたのがきっかけで、読もう!と思った本。そうでなくても、名前は知っていたし、以前読もうと思ったこともあったのだけれどきちんと読んでいなかった。
最近いろんな本を読むけれど、その中で幾度も引用されていて、一読してからだとそれらの背景や言おうとすることもなるほど、と読めるのでよかったなと思う。
ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」、ナチスによる強制収容所への収容経験を心理学者として記した本だ。収容所という極限状態を経験することによる人間の精神的な変化が描かれる。収容所まで、収容所での生活、そして収容所の後、の3部に分かれる。

夜と霧、が引用・言及される、有名な箇所は収容所での生活を描く最後。
収容所での生活の中においても、どのようにふるまうか、どのようにその環境と自身の生に対して向き合うかということは自由であるということ。

「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんの一握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。」
「つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。」

さらに、それぞれの心持次第で希望を持ち生活することもできること、そしてその希望こそが生きる力になるということ。

「勇気と希望、あるいはその喪失といった情緒と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係性がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を失うことがどれほど致命的かということも熟知している」

これらを収容所での生活の中から見出したことこそが夜と霧がいろんなところで引用され、示される大きな価値だ。
極限的に外的要因に制限を課されて、「人間らしさ」を保てなくなった状態で、未来に希望や生きる意味を求めることができる人がいた。
(たとえば、生きることに希望を持てないと話していたひとに、未来に彼らを待つ何か、-仕事や子供-があることを伝え、意識させたことに成功した、というエピソードがある。「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」)

4月頃に読んだけれど、その強さをもち、内面的な成長を遂げた人が、全体のうちのわずかにでもいて、生き残ったということをこの社会的に「人間らしい生活」にさまざまな制約のかかる中で考え直してみてもよいのかもしれないと思った。

そして、もうひとつ、「生きる意味を問う」、生きる意味についてコペルニクス的転回が必要なのだ、という指摘も、夜と霧において有名な一節。

「ここで重要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(略)生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。」

最近、生きる態度、自らの目線の投げかけ方とそれに伴って「なにをするか」が大切なのだ、と、様々な本に語り掛けられています(またその話は別に、noteに書けたら)。それらを「読んだ話」にとどめず自分の生活に返せるようにするには、ということを改めて考えようとしているところです。


Photo by Lukas Robertson on Unsplash

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