最近のこと

noteなのか、つぶやきなのか、はたまたそのどちらでもない日常会話や飲み会などなのか、言葉を紡ぐという機会が少なくなってきたな、とふと思う。
意識的に考えていることを言葉にしなくてはきっと、言葉の使い方も忘れてしまうような気がして、そしてきっとわたしは忘れかけているようにも感じている。だから、そういうことでもよいから言葉にしなくては、と突如思い立ってnoteを書きはじめた。

---

最近読んだ本と、その先に考えたこと

新生活、というより自粛生活の延長のなかでずるずると、社会に足を踏み入れはじめる、という状況を経験しているこの春。
何もすることがなくて、そしてやらなくてはと思っていたことの踏ん切りをいつまでもつけられないまま、本を読んだり、ぼんやりしたり娯楽に勤しんだり、している。
気がつくと、同じような本、ー特に女性が主人公の、自伝や評伝、あるいは一人称語りの物語ーー、といったものばかり読んでいる。
その中の女性たちは、多くがいわゆる偉人や、若いうちから頭角を現すようなタイプではない。だいたいが子供もいる。実話なら、生涯をかけて結果を出していくような人。(まあそうでなければ自伝・評伝の類にならないのかもしれない)

内容よりもむしろ、最近読んだ本について話していた時に近しい本ばかり手に取っていることに、きづいたことが面白かった。
どこかで、ロールモデルを探しているか、はたまたわたしたちの置かれた境遇に対する客観的な、記述を探しているのか。
一昔前の女性の置かれた状況、という文脈ではだいたいが男女の扱われ方に大きく違いがある。それに対して、ある程度の社会の仕組みとしても自分の置かれてきた環境としても、酷く男女による差別、不当な扱いを受けてこなかったことに対して、恵まれている、とも思った。特に「82年生まれ、キム・ジヨン」はほぼ同年代、あるいはそれに近い世代の話、と思うと自分が無自覚だったことも多いと思う。

しばしば生理痛の話なんかでも、個別事象すぎるために「女性同士でも分かり合えない」という。
現代社会における女性の扱いも、もちろんそれぞれの意識の違いがある。(自分がおかれた環境が異常だと気づけるか、そのような教育、知識や知恵があるかということ)そのうえで環境や境遇の違いがあり、それぞれがまったく問題を分かち合うということはできないのだろう。
(もちろんこれは現代に限らないが、現代は進歩しているか否か、という面での違いやその違いがグローバルに可視化されている、という意味で虐げられている方の当事者には違いがより鮮明に、見える。その分だけ抜けだす糸口も見つけられる、ということでもあるけれど)

女性、に限らない問題だとおもうのだけれど、こうしてそれぞれに違う環境条件のもとに世界を見ていること、日々思い出さなければと思う。

最近の意識

夏休みはだいたいやる気のあるうちに宿題を半分くらいやって、最後の方になって慌てて終わらせるような性格だった。
半ば強引な在宅勤務、というしくみによる恩恵(たとえば通勤時間がないとか、残業がほぼ必要ない、といったことによる自由な時間の圧倒的な多さ)をなかなか活かしきれずのんびりとしていた挙句に、最後になってあれもこれも、と焦っている。。

あるいは、昔読んだ本や旅行先で考えていたこと、といったことも、記録しなければ当然だけれど徐々に抜け落ちてしまうということにも、ようやく自覚的になって。それでも最近は日記に記したりしているのだけれど、まとめよう、という気持ちだけ持って春、GW、在宅期間、と日々が過ぎている。
(パソコンのキーボードを触るのをおっくうに思っているうちに日々が過ぎている)
だいたいが日記帳にさらさらと文字を連ねる方が気楽にできるのだけれど、たまにこうして客観的にモノを言いたくなる時に、キーボードをたたいて、誰かになり切ったようなふりをして文章を書こうとだけ思う。なんだかもったいないからやっぱり、旅行記も写真と合わせてnoteにしたいな、と思う今日のこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?