vol.4_日本人はテクノロジーの応用が上手い理由を、紙の歴史から紐解く

こんにちは!"RETHINK PAPER PROJECT"のシミズサトシです。
本日もご覧いただき、ありがとうございます。

さて、前回はついに紙が誕生しました。 

蔡倫伝説、シビれましたねー。蔡倫じゃなかったんかい!の件です。
僕の地元の福井県越前市には、約1500年前に紙を伝えたされる川上御前という神様の伝説があって、僕を含めた地元の人たちはこの神様を崇拝しているんですけど、何かの証拠が見つかって、「紙を伝えたのは、実は川上御前じゃなかった!」ってなったら、割と血の気が引くと思います。
結構自分ごととして、哀愁のあるストーリーでした。

そして、セルロース繊維の件。
中国人は、現在でも同じように作られている紙を、約1900年前に発明したんですけど、紙を作るには植物をパルプ、つまり、セルロース繊維の状態にしなくてはいけないんです。
その工程は複雑で、ゼロからその状態にもっていくのは至難の技なんですけど、彼らはやっちゃいます。
もう、シンプルに凄いです。
そのお陰で僕たちは紙が使えていると考えると、当時の彼らの努力には脱帽です。

前回はそんな感じのお話でしたが、今回は、そんな紙がついに我らが日本に渡ってきた、というお話をしたいと思います。

先ほど、僕の地元に川上御前という、約1500年前に紙を伝えたとされる神様のお話をしましたが、今回は割愛させていただきます。めっちゃ話したいですけど、今回は我慢します(笑)
この川上御前のお話は、別の機会にじっくりとお話しさせていただきますので、お楽しみに!

■中国から東アジアへ

中国で紙が発明されてから、その普及が国内で終わるはずもなく、国外へ輸出されていきます。

中国から国外へ広まった理由。それは、宗教です。
とりわけ影響が大きかったとされるのが、そう、仏教です。

でも、なんで、仏教が紙を広めるキッカケとなったんでしょう?
それは、写経、つまり、仏教の経典を書き写すことに功徳があるとされていたからなんです。
何に書き写すか?
そう、大量生産に向いている紙は、この写経用紙にもってこいなんです。
なるほどですよね。
仏教徒もめっちゃ功徳積めるし、布教する側も経典をめっちゃ重版できるし、もう、言うことないですね。
仏教の普及は、紙の存在なしには語れないんです。(逆もまた然りですね。)

だけど、ここで疑問が生まれます。
仏教が生まれた国、インドで紙の使用が普及したのは、なんと12世紀になってからなんです。
#めっちゃ遅い

じゃあ、中国からいち早く紙が伝わったのはどこでしょう?
まずは、ベトナムや朝鮮半島に伝わります。

ベトナムは中国の属国でしたから、当然のように、紙がいち早く伝わります。ベトナムに紙漉きの技術が渡ったのは、3世紀のことです。
属国という関係ですから、不思議ではないですね。
ちなみに、ベトナムは、製紙技術が高く、中国へも紙を輸出していたそうです。

朝鮮半島にも、4世紀に紙漉きの技術が伝わります。
それは、372年に、順道という僧侶が高句麗を訪れたのがきっかけです。そう、仏教をきっかけに紙漉きが広まっていきます。

朝鮮半島の紙漉きについて少し触れておきます。
原料は、主にカジノキで、その他にも、米、藁、麻、藤、海藻などが使われていたそうです。漉き簀は、竹や高麗芝を編んだものを使っていたそうです。

仏教以外の用途にも応用されていきます。
象徴的なものとして、オンドルという床暖房設備にも使われます。オンドルは、日本の油団のルーツにもなったものです。
何層にも重なった紙に、油を染み込ませて作るものです。
かまどで焚いた火の熱を床下の煙突に巡らせるんですが、床の上にこの紙を敷きます。そうすることによって、オール自然素材の床暖房が出来上がります。
ちなみに、日本の油団は逆です。夏に使います。僕も油団の上に乗ったことがありますが、めちゃくちゃ涼しくて気持ちいです。

■ついに、紙が日本に渡る

そして、いよいよ日本に紙が渡ってきます。

『日本書紀』の記述によると、7世紀に、曇徴という僧侶が製紙術を日本に伝えたとされています。

画像_曇徴

曇徴
生年:生没年不詳
7世紀初めの高句麗の僧。推古18(610)年3月に嬰陽王の貢上として、法定 と共に来日。仏教以外の知識として五経(儒教)に通じ、彩色(絵の具)、紙墨、碾磑の製作技術を伝えた。碾は精米機、磑は精粉機で、いずれも水力を使用する。『日本書紀』は碾磑を造ることはこれから始まるとする。紙墨の製作はこれ以前に伝来していたので、良質の製法を伝えたのだろう。これらの技術は広く文化の発展に貢献した。聖徳太子により、斑鳩宮(法隆寺東院)に召されたとき、曇徴と法定は前世において南岳恵思禅師の弟子だったと述べたので、法隆寺に止住することとなった(『聖徳太子伝暦』による)という。
<出典>朝日日本歴史人物事典

日本は、製紙術のみならず、中国の文化を丸っと仕入れます。漢字、仏教、儒教、書、絵、官僚制なんかを仕入れて、日本国内で応用していきます。

製紙のみの輸入だったら、日本での和紙の普及はもう少し遅れていたでしょう。

しかし、当時の日本にとって、中国は、父親とか兄貴分的な存在です。日本が刃牙だとしたら、中国は勇次郎です。オーガです。
そこは、文化を丸ごと輸入します。

この後、日本はめちゃくちゃ紙を文化に取り入れていきます。
紙の歴史の別の回でも、ちょいちょい日本の和紙の話が出てくる予定ですが、日本の和紙、まじでアツいです。

■コストを追う中国・質を追う日本

なぜ、和紙が世界に羽ばたく素材となったのか。
それは、日本人が紙の品質や美しさをトコトン追求したからです。

中国では、竹簡は高尚な儒学の思想や上級階級の書写媒体、紙はより多くの読者に書籍を届けるためのもの、と分けられていました。
つまり、紙に求められていたのは、質よりもコストでした。

一方の日本は、品質を追求していきます。
天皇所有の書物を所蔵する図書寮紙屋院という施設が設置されます。

ずしょ‐りょう ヅショレウ【図書寮】
〘名〙 令制官司の一つ。中務省(なかつかさしょう)に属して、宮中の書籍・仏具の保管、図書の書写・製本を行ない、紙・筆・墨などを製造して諸司に給付し、また、国史の修撰をつかさどった役所。頭、助、大少允、大少属や写書手、装潢手、造紙手、造筆手、造墨手などから構成される。ふみのつかさ。ふんのつかさ。〔令義解(718)〕
<出典>〔精選版〕日本国語大辞典

この紙屋院は、手漉き和紙の質を維持する、または引き上げるための施設です。

かみや‐いん ‥ヰン【紙屋院】
〘名〙 平安時代、京都紫野に置かれた官用の造紙所。図書寮(ずしょりょう)の別所。ここで漉かれた紙を紙屋紙(かみやがみ)といい、近くを流れる川を紙屋川という。紙屋。しおくいん。かんやいん。かやいん。
※西宮記(969頃)八「紙屋院 図書別所在二野宮東一」
<出典>〔精選版〕日本国語大辞典


そう、日本は、国をあげて紙の品質向上に力を注いだんです。
時代はくだりますが、ベルサイユ条約の正文用紙に使われた紙も、日本が世界に誇る和紙です。

■日本人はテクノロジーを応用するのが上手い

今は「失われた30年」なんて言われてますが、元来、日本人はテクノロジーを応用することに長けていたんです。

中国から輸入した紙を、自国のフィルターにかけ、和紙という唯一無二の素材に成長させました。

例を挙げると、日本はガラスの製造において、かなり遅れをとりましたが、そこには、障子の存在があるとされています。
今では障子がある家なんて珍しくなってきていると思いますが、障子は、日本建築には欠かせないものでした。
日本人は、障子で満足していたので、ガラスを必要としなかったのです。

これは、今のキャッシュレスの流れに似たようなものを感じます。
日本は紙幣の製造技術がとても高いため、現金への信用度がとても高く、現在でも現金の文化が色濃く残っています。
一方、今、中国に行くと、現金を使う機会の方が圧倒的に少ないです。QRコードを読み込んで、キャッシュレスで決済を行うのが当たり前です。お賽銭やお年玉も当然、キャッシュレスです。あの人口の国を一気にキャッシュレスの文化に持っていくのは、社会主義市場経済による上意下達の側面もありますが、現金の信用度が低かったことも1つの要因でしょう。
更に、スウェーデンに場所を移すと、QRコードを読み込んでの決済すら過去の産物で、人体に埋め込んだマイクロチップで決済を行っているそうです。もう、日本人の僕からしたら、遠い未来の話に聞こえます(笑)
以上、日本は紙の技術が高過ぎたために、デジタルの流れに乗り遅れている、という皮肉なお話しでした(笑)

さて、話を戻しましょう。
先述の障子の他にも、襖や傘など、生活のありとあらゆる場面に紙が使われました。

そして、極め付けにとんでもないものにまで紙を使います。
風船爆弾という、兵器です。
これは、第二次世界大戦で実際に使われたものです。人力を使わず、敵国を威嚇する手段として、和紙が採用されたのです。
和紙で作られた気球に爆弾を搭載して、当時の敵国であるアメリカに飛ばしちゃおう、という半端ない作戦です。
ちなみに、デパートのアドバルーンを見て、ひらめいたそうです。#想像力

この風船爆弾は、約9,000基が放たれ、うち1,000基がアメリカ本土に着弾したそうです。#着弾したんかい #凄い
この風船爆弾によって、2件の事故が起こりました。小さな山火事と6名のアメリカ人が亡くなる事故です。
このアメリカ人が亡くなった事故が起こった場所は、皮肉なことに、アメリカの大手製紙会社の所有する土地だったそうです。

このように、日本人は、紙を例にとっても、テクノロジーを応用するのが上手いと言えると思います。

今回は、中国から製紙術が輸出され、東アジア、それから日本に広まっていったというお話しでした。

ポイントは、①紙と仏教の相性がとても良かったということ、②特に日本人は、書写媒体のみならず、生活のありとあらゆるところに紙を取り入れたということ、そこから言えるのは、元来日本人というのはテクノロジーを応用するのが上手い人種だということです。

もう、アドバルーンから風船爆弾を思いついた方の想像力に、完全に屈服しています。

次回は、イスラム帝国に紙が渡っていくというお話をしたいと思います。
ここで、紙による文化とか学問が急激に広がっていきます。お楽しみに。

それでは、本日はこの辺で失礼いたします。最後までご覧いただき、ありがとうございました。


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