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遊びの拡大理論について

おはようございます。今日も素敵な一日になりますことを願っております。

『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (126-137頁)によれば、

以前の記事”遊びの特性について”で4つの遊びの領域ー競争(アゴン)、運(アレア)、模擬(ミミクリ)、眩暈(イリンクス)ーについてご紹介いたしました。これらは遊びを行うプレーヤーにとって遊びを支配する基本的態度を意味します。

遊びの拡大理論とは、これら4つの基本的態度は遊びの中でそれぞれ切り離されて現れるとは限らず、それらの魅力は互いに組み合わされて出てきやすく、組み合わさることで成り立つ遊びも多く存在します。これらの4つの基本的態度は、理論的には、可能な6つの組合せに限定されます。

競争(アゴン)+ 運(アレア)
競争(アゴン)+ 模擬(ミミクリ)
競争(アゴン)+ 眩暈(イリンクス)
運(アレア)+ 模擬(ミミクリ)
運(アレア)+ 眩暈(イリンクス)
模擬(ミミクリ)+ 眩暈(イリンクス)

もちろん3つの組合せからなる成り立つ遊びも想定できますが、それはたまたま3つ並んでいるだけで、遊びの性格に何の影響ももたらさないため、3つの組合せは成り立たないとの事です。例えば騎手にとっては典型的な競争(アゴン)である競馬は、同時に模擬(ミミクリ)に属する見世物であり、運(アレア)に属する賭け事でもあります。

しかしプレーヤーを主体に競馬を見た場合、騎手にとっては競争(アゴン)であり模擬(ミミクリ)となりますが、観衆にとっては運(アレア)になります。更に最近はXゲーム等の眩暈を起こしそうなアクロバッティックな技を競う競技もありますが、競技者にとっては眩暈から来る陶酔感が得られることが競技=遊びを始めるきっかけだったかもしれまんが、次第に陶酔感よりもより高い技を繰り出すことに満足を覚える様になり、眩暈を起こしていては着地もままならない上大きな怪我に繋がることから、遊びのフェーズで、基本的態度が変化したと考えるべきではないかと存じます。

本書の中で述べられている、あり得ない組合せとして競争(アゴン)+ 眩暈(イリンクス)は競争(アゴン)の原理である自制やルールなどの規定の尊重は、 眩暈(イリンクス)の原理である意識的麻痺や盲目的な熱狂は相反するもので両立しえません。更に運(アレア)+ 模擬(ミミクリ)も他者を装う技術にとって、運命の声を聞くということは意味がないため組合せとしてはあり得ないことになります。

競争(アゴン)+ 模擬(ミミクリ)及び運(アレア)+ 眩暈(イリンクス)の組合せは互いに何の不都合もなく結びつきやすいので偶発的に組み合わさって遊びが成り立ちます。

最後に根源的な組み合わせとして競争(アゴン)、運(アレア)、模擬(ミミクリ)、 眩暈(イリンクス)の組み合わせを対比した場合をみてみると、競争(アゴン)と運(アレア)は相似的であり補足的であります。競争(アゴン)も運(アレア)も共に競技者間の完全な均等と絶対的な公平とを確保する点でよく似た方法である。前者が、外的な障碍に立ち向かう意志の格闘であるのに対し後者は、外的な賞罰に服従して意志を放棄することで、遊びの世界にあっては、規則の領域を占めています。規則が無ければ競争も偶然の遊びも存在しません。

一方反対の極にある模擬(ミミクリ)や眩暈(イリンクス)は共に脱規則の世界を想定して、プレーヤーは至上の霊感に身を委ね、つねに即興的に振る舞い、法規というものを認めません。模擬行為には演技者の意識が本来の人格と演技する役割との間で分裂が生じ、眩暈においては逆に、意識の完全な消滅ではないまでも、それ自体が混乱やパニックを生み出します。

競争(アゴン)と模擬(ミミクリ)とは教育的、美的価値を認める文化形態を作ることができ、安定した魅力ある制度が必然的に出てきて、能動的で生産的であるのに対し運(アレア)と眩暈(イリンクス)とはそれらを追求することからは稀な例外を除いては何も生まず、精神を麻痺させ、妨害し、破壊的な生み出すことが多く、受動的で破滅的で、発展して自分を確立しうるものも作り出しません。

従いまして、理論的に6組の2つの原理の組み合わさった遊びが存在しますが、競争(アゴン)+ 眩暈(イリンクス)と運(アレア)+ 模擬(ミミクリ)の組み合わせが成立しないので3つ以上の原理の組み合わさった遊びは存在しないことになります。