マガジンのカバー画像

モーツァルトの部屋

119
運営しているクリエイター

2021年10月の記事一覧

再生

『パリ・ソナタ』 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 (300d) Allegro maestoso イ短調 4/4 ソナタ形式 Andante cantabile con espressione ヘ長調 3/4 ソナタ形式 Presto イ短調 2/4 ロンド形式 〔作曲〕 1778年初夏 パリ ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330 (300h) Allegro moderato ハ長調 2/4 ソナタ形式 Andante cantabile ヘ長調 3/4 三部形式、中間部はヘ短調 Allegretto ハ長調 2/4 ソナタ形式 〔作曲〕 1783年 ウィーンかザルツブルク ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331 (300i) Andante grazioso イ長調 6/8 主題と6変奏(第3変奏はイ短調、ほかはイ長調) Menuetto イ長調 トリオはニ長調 変則的なロンド Alla turca, Allegretto イ短調 2/4 複合三部形式 〔作曲〕 1783年 ウィーンかザルツブルク ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 (300k) Allegro ヘ長調 3/4 ソナタ形式 Adagio 変ロ長調 4/4 展開部のないソナタ形式あるいは二部形式 Allegro assai ヘ長調 6/8 ソナタ形式 〔作曲〕 1783年 ウィーンかザルツブルク ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333 Allegro 変ロ長調 4/4 ソナタ形式 Andante cantabile 変ホ長調 3/4 ソナタ形式 Allegretto grazioso 変ロ長調 2/2 ロンド形式 〔作曲〕 1783年末 リンツ 「モーツァルトのピアノ・ソナタの最高峰に位置する名曲」(久元)と評価の高いこのソナタは1778年パリでの作と見られ、 315c という番号で位置づけられていた。 その年の7月3日に母が客死。 故郷ザルツブルクに残る父レオポルトとの間で息詰まるような手紙のやりとりがある。 そんなとき、ロンドンからクリスチャン・バッハが来た。 そして8月27日にモーツァルトは、自由奔放過ぎる息子に苛立つ父に手紙を書いている。 ロンドンのバッハさんが当地へ来て、すでに二週間になります。 彼はフランス語オペラを書く予定です。 当地には、ただ歌手を聴きに来たわけで、そのあとロンドンに戻り、作品を書き上げてから、もう一度舞台にかけるために来るでしょう。 ぼくらが再会したときの彼のよろこびとぼくのよろこびがどんなだったか、容易に想像してもらえますね。 [書簡全集 IV] p.246 ロンドンのバッハとはヨハン・クリスティアン・バッハであり、モーツァルトは8歳のときロンドンで出会ってから生涯通して尊敬し、大きな影響を受けたことはよく知られている。 その1778年夏、就職活動がうまくいかず、母も失い、落ち込んでいたモーツァルトにとって、かつて自分を暖かく受け入れてくれたクリスティアン・バッハがパリに来たことはどれほど嬉しかったであろうか。 一方、やむなくザルツブルクに残らざるを得なかったレオポルトは現実を見極め、堅実に用心深く行動するタイプだったから、自分の手の届かない遠い異国にいる息子は野良犬のように見えたであろう。 この時期の父子の間の確執はさておき、この曲については、アインシュタインが モーツァルトが再びヨーハン・クリスティアーン・バッハと自分自身への帰り路を見いだしたのだと言えよう。 ヨーハン・クリスティアーンへのというのは、特に第一楽章においてであり、自分自身へというのは、特にフィナーレにおいてである。 実際にヨーハン・クリスティアーンは1778年8月のはじめにパリへやって来ていた。 そして彼が、その翌年に作品17番として出版したらしいソナタを、モーツァルトに知らせなかったはずはない。 [アインシュタイン] pp.337-338 と書いているように、クリスティアン・バッハのソナタ「作品17-4」との類似性から、ちょうどこの時期に成立したものと思われていた。 確かに辻褄が合う推測であった。 しかし、その後、プラートによる筆跡の研究とタイソンによる自筆譜の研究から、1783年末、モーツァルトが妻コンスタンツェを伴って里帰りを果して、ザルツブルクからウィーンへ戻る途中リンツで作曲されたと考えられ、交響曲「リンツ K.425」の姉妹作とみられるようになった。 そして、指摘されているクリスティアン・バッハの作品との親近性については、 1782年4月10日の父レオポルト宛ての手紙に イギリスのバッハが亡くなったことは、ご存じでしょうね。 音楽の世界にとって惜しむべきことです! [手紙(下)] p.54 と書いているように、音楽上の大きな影響を受け尊敬していた先輩に捧げたオマージュと推測されている。 こうなると、ケッヘル番号(K.315c)も K.425 の後に置かれるものと思われる。 モーツァルトがリンツからウィーンに戻ったのは1783年11月末か12月初めの頃であり、[全作品事典]はこのソナタの成立を「11月半ば、リンツとウィーン」とし、来るウィーンの冬の演奏会シーズンのために書いたものとしている。 モーツァルト自身が演奏するためであれば、このソナタはかなり高度な技巧を要すると言われることもうなずける。 また、第3楽章には28小節の大カデンツァがあり、これはソナタの枠を越え、コンチェルトの中でこそふさわしいほどであり、作曲者はウィーンの聴衆を魅了して余りあるパフォーマンスを意識していたことは間違いない。 1784年に3曲のソナタ(K.284、K.333、K.454)が「作品 VII」としてウィーンのトリチェラから出版された。 これらのソナタは「なかなかの難曲であるという点で共通している」という。 この3曲はかなり高度な技巧を受け入れることができる愛好家を想定して出版されたと考えられる。 [久元1] p.103 すなわち「プロに近い腕前の人」向けに選んだ曲集であった。 Mozart con graziaより

再生

コンスタンチェ・モーツアルト