神様の言葉である聖書と聖書化するブログ

 アメブロの2019年10月1日の記事と重複します。 

1 神様の言葉である聖書

「聖書」と聞くと浮かぶのはキリスト教の聖書(旧約・新約)です。

 読みやすさから言ったら口語体ですが、格調が高く、いかにも神様の言葉というイメージに近いのは文語体です。

旧約聖書 イザヤ書 49章

(文語訳)

49:15 婦その乳兒をわすれて己がはらの子をあはれまざることあらんや 縦ひかれら忘るることありとも我はなんぢを忘るることなし

49:16 われ掌になんぢを彫刻めり なんぢの石垣はつねにわが前にあり

(口語訳)

15 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。

16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。

 聖書で一番好きな箇所をあげましたが、これが私がイメージする聖書です。神様の言葉以外の何物でもないと思います。

2  聖書化するブログ

 本日、市川海老蔵さんのブログが国立国会図書館で保存されると聞き、麻央さんのブログについて前から書いていた事ですが書いておきます。

 先日、「人間が神になるということ」について書きました。本人が聖人ではないのに、周囲から崇め奉られる人がいるという事、そういう人を取り巻く人々の様子から人物神ができていく過程がわかる事、死後、仮にマイナスの内容の話が出てきても評価が下がりにくく、神格化されていく人間がいるという事を書きました。

 麻央さんはキリスト教徒ではないので、キリスト教の聖人になる事はないでしょう。しかし、彼女は死後、評価が下がらないと思われるダイアナ元妃や樹木希林さんカテゴリーに入るのが着地点ではないかと思うのです。

  彼女のブログが英訳された時に、まっさきに思った事は、英語の教科書に使われるのではないかという事でした。そして、原文の方は、「ことばのちから」的な内容で国語(上の学年に行けば現代文)、闘病中も人の光(主治医の先生の「病気のかげに隠れない」という言葉、小さい子の母としての自分と家族とのかかわりなど)になったという事で道徳、このあたりの教科書に掲載されるような気がしてなりません。学術的な根拠はないのですが、何となくそんな気がしてならないのです。

 闘病に関してという事なら、正岡子規の『病床六尺』など、戦前からたくさんの作品があるので珍しくないのですが、彼女のブログは本人の神格化が進むといわゆる「聖書」カテゴリーに行くのではないかと思います。けして神様の言葉ではありませんけど。

3 誰のエッセイやブログでも聖書化なりうるか

 10年以内に亡くなった方の闘病を扱った作品では、川島なお美さんと鎧塚俊彦さんのエッセイ『カーテンコール』があります。元にしたドラマも放送されました。これはパートナーシップとは何かを考える意味では大変有益ですが、聖書的な本にはなりにくいと思います。本来は、なお美さんが回復する事を前提に書いたがん患者に向けての本のようですし、彼女がどうやってがんと向き合ったかという自問自答・死闘の記録ですから、聖書的な本になる必要もないと思います。

 まあ、他人様の事ですし、特定の人物を人物神化するのであればそういう流れの世の中であるとしか言いようがないのですが、麻央さんのブログが今後どういった方向にいくのかは気になるところでもあります。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?