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柳原良平主義〜RhoheIZM 23〜

気にしないというスタイル

アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。

ところが柳原良平にそうした、ある種のピリピリした雰囲気を感じていた人はいない。どこか隠れたところでピリピリ(?)していたのだろうか。


人任せな柳原(?)

1958年に登場したアンクルトリスで各種の賞を総ナメにし、巨匠と呼ばれる存在になってからも、誰に対しても偉ぶらず気さくだったという話や、家庭内でも温厚だったという話は、すでに当コラムでも何度か紹介している。

際立った個性を放つアンクルトリスの制作においても、柳原は人任せなところがあった。アンクルトリスはいくつものアニメーション作品がCFとして制作されたが、柳原はそれらをアニメーターに任せていた(もちろん確認はしたはずだが)。

誤差の範囲?

著書で柳原は「顔のカタチを見ればいつ頃の作品か判る」と書いているが、それは手がけたアニメーターによって微妙に異なっているからだそうだ。柳原はそうした微妙な異なりを、誤差として許容していた。

逆に言えば、誤差が気にならないくらい強いオリジナリティが存在していたからと見ることもできる。本人は、こんなに人気キャラになるとは思わなかったので大まかなプロポーションを決めて細部は任せていたと、謙遜まじりに語っているが。

他にもあった人任せ

他にはリトグラフでも、原版の修正箇所を電話による指示のみで、刷り師に任せていた話を当コラムでも紹介した。原画などが存在せず、柳原が直接描きこんだ唯一無二の”原版”に向き合い、いざ手を入れる瞬間の刷り師の心持ちとはいかばかりか。さぞや緊張したのでは?と想像される。

また現在に至るまで、柳原の作品を卓上カレンダーに採用し続けている商船三井では、モノクロの線画を柳原が描き、色付けは商船三井に任せていた。切り絵作品などで見る鮮やかな柳原の色彩感覚にはいつも感動を覚えていたが、色付けを任せきっていたことを元・商船三井の中島淳子氏から聞いた際には、少し驚いた。

「色付けはこちらでやって、それを先生に見ていただくんです。先生から指定されることは基本的にないんですけど、一度だけ指定のあったことがありましたね。それは三色団子の、お団子の色をこの色でっていう(笑)。このとき以外はほとんどなかったと思います。カレンダーということで、シチュエーションを考えて描いていただけるんですよ、先生は。春だったら春っぽさが出るような感じの」

色付けを施す担当者に対する信頼は、もちろんあったろう。だが色を予感させるような原画だったのかもしれないと思った。だとすれば、その予感に従って付けられた色は、柳原にとっては無視できる誤差だったことになる。

アンクルトリス復活時も

2003年にアンクルトリスが復活する際もそうだった。広告をそれなりの規模で行うためには多くのカットが必要になる。柳原は、基本構図のみを描いて、あとは人に任せたそうだ。サン・アドの土井真人氏が教えてくれた。

「ご高齢だったこともあり先生は、ご自分ですべてを描くことは難しい状況だったんです。そうしたら先生が『じゃあ、基本的なアンクルトリスは描くから、それを元にして状況に合わせてそちらで変えてくれ』っておっしゃったんです」

柳原が描いた、基本的なアンクルトリスとはどんなものかというと。

「たとえばウイスキーグラスを持って立ってるみたいな感じのもの。正面だったり、横からだったり、さまざまなアングルのものを5〜6点描いていただいたような気がします。原画それ自体は描き下ろしですね。カラーでした。このとき爪楊枝入れを復活させたんですが、それなどまさに先生がチェックして決まったデザインになっています」

こうした話ばかりをすると、なんでもOKだったように感じるかもしれない。しかし柳原は、こだわるところにはこだわるという一面も見せた。同じく土井氏が教えてくれたこんな話がある。

「ご当地ものを手がけたときがありまして。宮城県の仙台市限定のトリス缶を作ったんです。そのときはアンクルトリスに兜を被せました。仙台の武将と言えば伊達政宗ですよね。そうなると、先生は歴史的なことに見識が深いですから、こうしたほうがいいっていうアイディアをいただきまして。最終的にはそのアイディアを反映して作り直しました」

怒りのメモ事件

また、元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏に、柳原は一度も怒ったことがなかったのかと聞いたとき、怒りのメモは一度もらったことがあると言って打ち明けてくれたこんな話がある。

「マリタイムミュージアムができたとき内覧会で、日本郵船の鎌倉丸って船の模型を展示したんですよ。大きい模型でね。模型を入れるケースを作ったんです。全長4mくらいなんですけど、サイズが大き過ぎて一枚のガラスで作れなくて2枚に分けたんです。そうしたら、ちょうど真ん中のところにステンレスの柱が、船を分割する格好で入ってしまって。それを見た先生がメモを置いていったんです。『船が台無しだ』って。平面図では、そういう部分まで書かれておらず、僕も実際に見るまでわかりませんでした」

人任せという言葉は、無責任というニュアンスを含む。ここでは意図的にそういう言葉を使ってみたが、柳原の仕事ぶりが無責任だったというわけでは決してなく、むしろ個性という最も重要な核を確立させ、その上で仕上げを人に渡す懐の深さに驚かされた次第だ。なので誤解せぬようお願いしたい。今回は、こだわりと執着心とは、似て非なるものだと痛感。(以下、次号)


※編注 「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。                                                                                                                     

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ご協力いただいた方々

●中島淳子(なかじま・あつこ) 1976年、大阪商船三井船舶株式会社(現・株式会社商船三井)入社。秘書室を経て広報室に異動し、以降は一貫してサイト管理や社内報・広報誌の制作を担当。2002年にはサイト内に「柳原名誉船長ミュージアム」を設置。柳原作品の発注窓口となり、約13年にわたり文通のようなやりとりを続けた。                         

●土井真人(どい・まさと)1996年、株式会社サン・アドに入社。主にサントリーウーロン茶の広告、村田製作所の企業広告のプロデューサーなどを担当する。その他、サントリー新CI(水と生きる)プロジェクトなどにもプロデューサーとして参画。その後、トリスウイスキーの広告の仕事を
通じて柳原良平と出会い、以来サントリーの柳原作品の著作管理業務を行う。         

● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務  めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は海事史などを研究している。                                

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