南米実習記

柳原 國臣                   

 2023年11月13日

1962年、秋田大学鉱山学部に入学、海外移住研究会(後の海外鉱業研究会)に入会した。日本は鉱物資源に乏しく、海外に大きく依存しなければならない状況であった。鉱業技術を習得し、海外に雄飛し、探査、開発、利用の面で貢献することが使命であると自覚し、海外移住はそれを実現するための大きな目標と認識した。
海外移住研究会は、1962年に日本学生海外移住連盟(学移連)に加盟した。学移連は1955年、海外移住・海外事情・中南米文化・スペイン語・ポルトガル語等の研究を行う趣旨に基づき、調査・研究・海外移住・講演会等の活動において日本学生の中核として、特に南米移住問題に重要な役目を果たすことを目的として設立された。全盛期には60校を超える大学のサークルが参加した。
私は第六次学生実習調査団の鉱工業部門の一員としてブラジルとボリビアで一年間実習する機会に恵まれた。1965年春、六次団10名が横浜根岸の大桟橋から移民船で出航した。移民船にはブラジルやアルゼンチンへの移住者の家族で一杯だった。

ブラジル移民船
六次団メンバー  後列右より二人目 柳原

⚫︎ ブラジル移民船中での思い出
単身移住者、家族移住者はこれから新天地で活躍を夢見て南米を目指している。どのようなことがきっかけで移住を決意したのか知る由がないが、相当な覚悟の上での移住であったろうと推察する。我々が彼ら、彼女らに続くのかどうか決意しなければならない時が来るであろうと考えた。
移住者の子供を対象に船内に日本人学校を造り、我々メンバーが先生になりブラジルに着くまで授業を行った。私は算数と体育担当だったと記憶する。
10名の団員で様々なテーマを決めて、ブレーンストーミングを行った。記憶に残っているのは国際結婚の是非であった。私は国際結婚に賛成でありブラジルのような人種の坩堝が理想と考えた。遺伝的な混血問題、混血者の長所、伝統文化の喪失、言語、教育、歴史観などが熱く語られた。

移民船はロスアンジェルスに寄港し下船が出来た。アメリカ大陸初上陸であった。
パナマ運河を通過。太平洋と大西洋をつなぐ運河で海面差があるため「閘門式運河」で何ケ所か水面調整をして大西洋へ向かう。それまではマゼラン海峡を回るしか方法がなかったのであらゆる面で画期的な出来事であった。
キュラソーに二回目の寄港。カリブ海に浮かぶオランダの植民地。ラテンアメリカ入りである。これからの一人旅を思い不安に駆られた。
サン・サルバドールに寄港後、我々の最終地であるサントス港に入港した。

⚫︎ ブラジル上陸
移民収容所に数日過ごし、ブラジルの生活に慣れる訓練期間、記憶にあるのはフェジョアーダの食事であった。聞くところでは昔ブラジルにいた奴隷の食事で白人が捨てた豚などの耳、蹄、鼻などを豆類などと煮込み、ご飯の上にかける食べ物である。見栄えは悪いが栄養がありそうだった。収容所生活後、サンパウロの関係機関を訪問し、団員はそれぞれの実習地へと出発した。
いよいよ、南米一人の実習が始まる。健康に留意し、無事サンパウロに戻ることを願う。

六次団実習地

   ⚫︎ 南米中部を一周

柳原団員南米行動経路

サンパウロ~ポルトアレグレ~ブエノス・アイレス~ラパス~サンタクルス~サンパオロと、南米中部を一周した。
・サンパウロ~ポルト・アレグレ:バス 
・ポルトアレグレ~カマクアン鉱山:バス
・ポルト・アレグレン~ヴエノス・アイレス:バス
・ヴエノス・アイレス~ラパス:アンデス横断鉄道
・ラパス~チャカリア鉱山:バス
・チャカリア鉱山~サンタ・クルス:バス
・サンタクルス~サンパウロ:軍用機

◾️  実習記
ポルトアレグレ内陸のガウチョとバールで一杯:南米のカーボーイであるガウチョはパンパスの牧童である。Barに入ると数人のガウチョが屯している。長靴に拍車、腰には銃とナイフ。言葉も当地の生活にも慣れていないところでの体験で、些か勇気が必要であった。
カマクアン鉱山は現在、ブラジルで有数の銅鉱山で露天掘りと坑内掘りで銅鉱石を採掘、精錬を行っている。当時は小規模の鉱山で私は坑内掘りの手伝いをして数か月間過ごした。鉱山での経験も資格もない学生にできることには限られている。
⚫︎ 文化:「日本人とブラジル人の違い」
ある休日にブラジル人のエンジニアと近くを一泊二日の旅行することになった。チェックアウトを済ませてホテルを出ようとしたときの強烈な思い出がある。「ホテルマン」が「部屋の備品が見当たらないが心当たりはないか?」と訊ねると、「エンジニア」が、「このバッグに入っている」と答える。「ホテルマン」が、「持ち出しは禁止されているのでお返し願いたい」と言うと、「エンジニア」は、「はい、どうぞ」。「ホテルマン」が、「有難う御座いました」と答える。我々の常識、道徳観とはまるで異なる出来事であった。
⚫︎ 教訓:「日本人とブラジル人の違い」
ブラジル人は何か新しいプロジェクトや仕事を依頼されたとき、自分の体験、能力を考え、50%~60%の可能性、自信があれば挑戦する。完全にできなくても挑戦した価値を見出す。成功すれば万々歳である。失敗しても経験は残る。
日本人は80%の体験や能力があっても新しいことに挑戦することを躊躇うことが多く、拒否するケースが多いようだ。挑戦しなければ何も残らない。
何事にも興味を持ち挑戦する心構えが大事と肝に銘じた。
⚫︎ ポルトアレグレ郊外の日系人宅における体験
カマクアン鉱山に行く前のとある日、ポルトアレグレ郊外で花卉栽培をしている日系人家族を訪問した。豚の脳みその料理を御馳走(?)になった。その後、大変な体験談を聞く中で、強烈に記憶の残る言葉がある。「海外移住ということを安易に考えないこと。移住を決意したら死ぬ覚悟で取り組む」ことでした。
⚫︎ 社長の御馳走
カマクワンン鉱山社の社長が鉱山を視察した。ある晴れた日、鉱山社社員と家族のために大シュラスコパーティーが行われた。
私は会社の人と、肉の調達のため屠札場に出かけた。狭い通路を牛がのろのろ歩き、その場に立ち止まると鉄槌が眉間に下され、物体となる仕掛けではなかったかと記憶している。牛はその運命を終えた。解体、調理された牛の肉の塊が、1m位の金串に刺され、牧場の片隅に掘られた長い直線状の溝に間隔を置いて斜めに刺される。溝には炭の火が赤々と熾きている。木の葉っぱに調味料の液体を絡め、その肉塊に塗り付ける。肉汁が火の上に落ち焼けた匂いが拡散する。焼けた肉塊をテーブルに運びテーブルに空いた穴に串を差し込む。肉塊からナイフで肉をそぎ落とし、サラダ、パンなどと一緒に食す。ピンガ、ビール、ワインなども飲み放題である。かなり酔っぱらったであろうと記憶している。
パーティーが盛り上がると、音楽バンドの音響、ダンス、歌、歓談など大いに賑わった。ブラジル独特の明るい賑やかな宴会と変容し、夜は深まる。これが社長のプレゼントとは驚きであった。
⚫︎ ブエノス・アイレス
六次団のメンバーが当地で実習していた。私は次の実習地ボリヴィアへの途次、ブエノス・アイレスに寄り道をした。数日滞在。ある夜、ラプラタ河の河口ヴォッカで夕食を摂ることにした。食後、公園でアルゼンチンタンゴを踊っている一団がありワイン飲みながら見物した。情熱的な踊りであった。
翌日、ブエノス・アイレスの中央駅(?)からボリビアのラパスまでアンデス横断鉄道3泊、海抜ゼロから4,000mの長旅である。(国境付近は高度4,200mを超える)アルゼンチンの国境を越え、ウユニ湖、オルロなど経由してプラトーからは盆地のラパスまで下降する。高原鉄道で徐々にではあるが高度を増した。高山病に罹り、ラパスのホテルに到着したころはひょろひょろ、夢遊病者のようであったであろう。数日間、標高の生活に体を慣らし、チャカリア鉱山にバスで向かう。
⚫︎ チャカリア鉱山
この鉱山は日本企業の会社で日本人の社員が複数勤務していた。銅鉱山で坑内実習で4か月ほどお世話になった。所長は大学の先輩で大変好意にしていただいた。
ある朝、鉱山事故が発生した。主要斜坑の崩落事故である。日本人社員が崩落事故の下敷きになり両足を支柱に挟まれ脱出が困難となった。所長は超多忙にも関わらず私に指示。救出作業の邪魔にならないところでこの救出作業を良く観察するようにとのことであった。
足を挟まれた支柱(木柱)を除去すると斜坑の崩落が全面的となり救出者は当然ながら作業に当たっている人たちにも二次災害が起きる懸念があった。討議の結果、挟まれた足を切断して助け出すことになった。救出された日本人は直ちに病院に運び込まれ救急治療にあたったが最大限の努力にかかわらず死に至った。
奥さんはボリヴィア人でその悲しみはいかばかりであったろう。海外に来て日本の鉱物資源の確保に貢献しながら心ならず斃れた本人。その同伴者として結婚されたボリヴィア人の妻と残された遺族。深い悲しみ包まれた。
先輩曰く:「この事故を忘れず資源開発に活躍するように」貴重な体験をさせていただいた。鉱山の両輪は生産と保安の確保である。
⚫︎ ボリヴィアの沖縄移住地(サンファン)
サンタ・クルス、サンファン移住地には九州出身の炭鉱離職者などが入植していた。オキナワ移住地は3か所に分散、沖縄第一診療所があり、私が訪問したころは伐採し、切り株が残り、空き地を焼き畑農法で陸稲が栽培されていたと記憶している。マラリアなど熱帯病が蔓延している地域での農業移住者の難しさを感じた。
⚫︎サンタ・クルスからサンパウロへ
六次団のサンパウロ集合時期が間近になった2月中旬、サンタ・クルスから軍用機に乗せて頂き無事サンパウロに着いた。命の保障はなかった。

⚫︎ 六次団サンパウロ集合
1965年2月六次団メンバーがあちこちからサンパウロに戻った。10名無事に全員が集合できた。移民船でサントスから横浜へと帰国した。
2月下旬、リオのカーニバルを見物できたのはラッキーであった。一年間、せっせとため込み、このカーニバルに参加できるのが至上の喜びとするブラジル人。この期間に持ち金を思いっきり使い切りカーニバルをエンジョイする。カーニバルが終わって一年近く経過すると多くの私生児が生まれると聞いた。

◾️ ブラジルを再び訪ねて
2014年、50年前に実習したブラジルを再び訪れることにした。六次団のメンバーとして実習した10名の内5名が南米に移住していた。六時団のメンバー5名はそれぞれの分野で成功し、悠々自適の生活をエンジョイしている。この仲間や同時期の仲間との再会とこの地で他界した先輩、同輩、後輩の慰霊祭に参列すること、そしてまだ見たことが無いイグアスの滝とアマゾンの大河を見ることであった。
学移連の学習調査派遣の根本的なモットーは「若人が世界のフロンティアに赴いて、その第一線で働いている人々に身を投じて苦楽を共に戦い抜く心身の訓練である」。
学移連から習得した教え:「Work Before Study」「Think Study Work」「二十一世紀はブラジルの時代だ、狭い日本を飛び出し、ブラジルの未来に賭けろ」などでした。
六次団の仲間や同じころブラジルに渡った先輩や同輩との再会である。久しぶりの再会に感動を覚えるやら懐かしいやらで若かりし頃の思い出が走馬灯のように巡り胸が一杯になった。
学移連ブラジルOB会主催の「日本学生海外移住連盟南米関係慰霊祭」がサンパウロの南米浄土宗別院日伯寺で行われた。「多くの学移連OBが横浜や神戸から出航し、南米大陸に勇躍壮途についた。いろいろな苦労を乗り越え、挑戦してきたが決して生易しいものではなかった。そして中には目指す遥かな道を前にして、不幸にも病や事故で帰らぬ人になってしまった友もいた。今は亡き彼らの心中を慮り、彼らの生前の健闘を讃え、彼らの霊をいたわり、この慰霊祭を開くことにした」、とある。
⚫︎イグアスの瀑布
アマゾンの大河は予想以上の圧巻でそのエネルギーの大きさに感動した。アマゾンは全地球の酸素の多くを供給している。植物、動物、鉱物の宝庫でまだまだ未知の分野が多く残されている。開発と自然環境保護の両面から調和のとれた配慮が求められる。

 アマゾン大河でピラニア釣り

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