映画評|『バルド、偽りの記録と一握りの真実』 メキシコの非現実的な市街をさまようシーンは圧巻
オープニングシーン、男が荒野の上空を飛ぶ。地表に空を飛んでいる自分の影が映っている。この光景、なんだか馴染みがある。飛ぶ夢の中で見た光景かもしれない。やがて地面が近づいてきて、両足が地面をとらえる。そういえば、この監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も、空を飛ぶ男の話(正確に言えば、空を飛べなくなった男の話)だった。
飛ぶ男は、重力から自由になりたいという願望があるのだろう。地球の重力からだけでなく、人生に取り憑くさまざまなメタファー、厄介な記憶からの自由だ。
主人公は、著名なジャーナリストでドキュメンタリー映画作家のシルベリオ・ガマ。米国で権威ある賞を受賞し、母国メキシコに凱旋した彼は、旧友や親族から、さまざまなかたちで歓迎される。だが、微妙にやっかみ混じりの歓迎だ。
ときおり時空が歪んで、過去の出来事が現在に紛れ込む、現在が過去に逆流していく。赤ん坊は子宮に戻りたがり、宮殿で米墨戦争の兵隊たちが白兵戦を始める。電車の中でウーパールーパーが泳ぎ、パーティー会場のトイレで死んだ父親と出会う。時空を超える通路をくぐり抜け、メキシコの非現実的な市街をさまようシーンは圧巻だ。混沌としたキュビズムの世界はどこか懐かしい。
米墨戦争とは、アメリカによるメキシコ領土への侵略戦争だ。その結果、アメリカはカリフォルニアなどを「買収」し、メキシコは領土の三分の一を失った。シルベリオはそんな母国メキシコを出て、米国で成功する。だが米国に長く住んでいても、アメリカ人にはなりきれない。かといって母国では、どことなく裏切り者あつかいだ。自分のアイデンティティはどこにあるのか。「成功は俺の最大の失敗だった」とシルベリオは独白する。
メキシコ人でもない自分が、なぜこの映画に心を動かされるのか。シルベリオには、生後まもなく亡くなったマテオという幼子の記憶がある。その幼子を「海に帰す」シーンはとびきり美しい。でも、本当に心を動かされるのは、そうした断片ではない。シルベリオは記憶の中にアイデンティティを探そうとして、それが成立しないことを自覚している。彼は世界を彷徨いながら自らの母胎を探す。でも聖母は顕現しない。その代わり彼は空を飛ぶ。
159分の長尺だが、映像が美しく退屈しない。もし何回も観たい映画があるとしたら、この映画はそのうちの一本だ。「人生は無意味な出来事の連続に過ぎない」とシルベリオの父は言う。散りばめられる哲学的ともいえる会話が、そのときどきに心に刺さる。
(2022年 メキシコ映画 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督 Netflixで視聴可能)
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