映画評|『バーニング 劇場版』 村上春樹の原作を”二度読み”したくなる
この韓国の映画は、村上春樹の短編「納屋を焼く」が原作である。映画を見たあと、久しぶりに「納屋を焼く」を読み返してみた。村上春樹の短編では個人的にベスト3に入るほど好きな作品なのだが、「あれ、こんな作品だったっけ?」と思った。それは不思議な感覚だった。映画を見た後に読んだら、まったく印象の違う作品になっていた。
「納屋を焼く」には一人の若い女性と二人の男性が登場する。主人公である小説家らしい「僕」と、若くエキセントリックな彼女、そしてルックスの良い謎めいた金持ちの青年。二人の男は、それぞれに彼女に想いを寄せている。この三人の人間関係は、村上春樹が敬愛し翻訳もしている「グレート・ギャツビイ」に似ている。
実際に短編の中で、村上は金持ちの青年について「僕」にこう語らせている。「まるでフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビイ』だなと僕は思った。何をしているのかはわからない。でも金は持っている謎の青年」。なので、確信犯的な人間関係なのだ。
映画版「納屋を焼く」は、現代の韓国のカルチャーに合わせて、村上作品を大胆に換骨奪胎している。まったく違う作品にも見えるが、三人の基本的なキャラと構図は変わらない。彼女はどうやら貧乏で、ところかまわず眠くなるのが特徴で、パントマイムを習っていて、「僕」の前で「蜜柑むき」を披露する。金持ちの青年は礼儀正しく、隙のない身なりをして、高級車を乗り回しているが、心ここにあらずで“表情に乏しい”。
三人はある午後、マリファナを吸いながら「僕」の自宅でランチを食べる。映画では、北朝鮮との国境に近い田舎の一軒家だ。遠くから北朝鮮のプロパガンダ放送が聞こえてくるというシュールな環境なのだが、夕陽の中でシャツを脱いで踊る彼女の映像は美しい。そこで「僕」は、金持ちの青年から「納屋を焼く」という話を聞く。映画では、「納屋」が「ビニールハウス」になっている。「納屋」は重要だと思うのだが、それはさておき。
「あれ、こんな作品だったっけ?」と思ったのは、読み返した村上作品では、金持ちの青年が納屋を焼くことについて、かなり踏み込んだ話をしていたからだ。「納屋を焼く」は、もっとシンプルな話だと思っていた。「僕」と金持ちの青年の対話は、「納屋を焼く」の核心部分なのに、あまり記憶がなかった。今回原作を読み直して、その部分がくっきりと印象に残った。映画では、そのダイアローグが少し違うニュアンスで語られている。
物語は、彼女が失踪したあたりから加速し始める。村上作品にはないラストへ向かう展開は、賛否両論あるだろう。いわば、韓国版「納屋を焼く」のエンディングは、「グレート・ギャツビイ」に近いのかもしれない。個人的に、このラストはなくてもよかったかなと思う。でもそれを差し引いても、心掴まれる映画であることに変わりない。原作を、より深く“二度読み”させてくれるという意味でも、有意義な映画なのだ。
第71回カンヌ国際映画祭コンペディション部門で国際批評家連盟賞を受賞。優れた構造を持つ「物語」は国境を超えて、新しい景色を見せてくれる。
(2018年 韓国映画 監督:イ・チャンドン U-NEXTで視聴可能)
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