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「原罪」という言葉は聖書にはない

これまで聖書をじっくり学んでこなかったため、聖書にしるされた言葉と、教理とがしっかりと区別できていなかった。こういう思い込みはあり得る。きっと他のことにも言えますね、反省。

なんと聖書には「原罪」という言葉はなく、その「概念」を最初に提唱したのは聖アウグスティヌスとのこと。神が言ったのではなく、人間が考えた「概念」だった、つまり一つの解釈だったとは大きな衝撃を受けた。


この解釈、概念を受け入れない、間違っている、論理的に整合性がないという選択肢が存在するとは思っていなかったために衝撃を受けた。日本の神話に、「原罪」という概念はないし、西洋のギリシャ神話やローマ神話では、神様は罪を犯しまくっているが、そこに「原罪」という概念はなかった。

「原罪」という概念が聖書の中でどうにも腑に落ちないものの一つだったために、ある意味納得した。もしこれが整合性がないとすると、多くのところで教理が破綻するのでは?

そして調べてみると、アウグスティヌスは、テオドシウス1世がローマ帝国でキリスト教を国教として公認した時期に活動していた教父であり、自分と主張の異なるペラギウスを、時の教皇に言いつけて418年のカルタゴの公会議で異端としたりしている。つまり正統か異端かも公会議という場で人間が行っているに過ぎない。

アウグスティヌスの教理はのちにヨーロッパがキリスト教化されていく中で、とてつもない影響力を与えていくことになる。アウグスティヌスが聖人だったから、彼の教理が正統とされたのか、それとも権力者にとって都合が良かったから、彼の教えが正統とさ彼が聖人とされたのか。「原罪」という概念は、人をコントロールするのにとても都合が良い。民を従順な羊にすることができる。のちのフーコーの権力論にて批判されるテーマがここにあるように思う。

とても大切なことを教えていただいた。



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