自己研修型の人について。
3ヵ月間の変化
今学期最初の模擬授業があった(模擬授業の話題ばかりが続いて恐れ入ります)。
基本的に、新しい学期、クラスで模擬授業を最初にする受講生はしんどい目に遭う。これが養成講座に入学したばかりの新入生になると、さらに圧がかかるはずである。
僕がこれまでに見てきた限りでは、順番が後続になればなるほど多くの人の模擬授業を見学できるので、吸収するものは多くなるし、避けられるミスも学べることになる。そのようにして、ある程度の要領をつかんで上達をする受講生の方はやはり多い。
とは言え、たくさんの人が授業をこなした後のトリの受講生も、この人は先人から何を学んだのかと暗に期待されてしまうので、いずれにしても、皆しんどいのには変わらない。要は、ひとつの学期の前と後、3ヵ月で、どのくらいの変化が生じているのか、ということに目が向かうことになる。
人によっては、日本語の先生という仕事に就きたいという気持ちを更に強くするだろうし、日本語を教えるということから離れて、何歩か引いて自分の位置を確認したり観察を始めるかもしれない。
そんなこんなに思いを巡らしたりしながら、受講生の人々を眺め、またデモンストレーションをしたり、グループワークの成り行きを僕は眺め続ける。そして、それぞれの受講生に、できるだけ多くのものを持ち帰ってもらいたいと思う。
わたしがコントロールできないもの
一方で、模擬授業をされる方、ひとりひとりが入念な準備をされ、どのような教具を作ってくるのか、実はこれが、何よりも楽しみの一つにもなってくる。パワーポイントにもストーリー性を持たせた構成を考えて作成してくる人もいるし、イラストに工夫を凝らしたPC(PicutureCard、絵カードという)をホワイトボードに貼って授業をされる方など、様々である。
そしてそこに、また文法の解釈や教え方について、ひとりひとりの考え方や生き方が表れるので、その時の授業の出来はひとまず横に置いて、その人が将来、先生になる時が来た時のことを考えて、評価やアドバイスをすることになる。一点、一番してはいけないのは、受講生にある種の失望感や挫折感を抱かせないことだ。
何かをした後に、良い気分で成功したと思うか、気を滅入らせて失敗したと思うか、それは当事者が思ったり感じることなので、講師がコントロールできることではない。留学生をはじめとする外国人に日本語を教えていた頃ではなく、養成講座で授業をするようになってから、僕が学んだことである。
もっと早く気づくべきであったと思うが、その人の気持ちというものは、基本的に周囲の他人には変えられないものなのです。
自己研修型教師
さて、「自己研修型教師」という言葉がある。
既存の教授法などに拠らず、能動的に自分(教師自身)の可能性を追求し、学習者の成長を助けるために授業を創造できる先生を指すが、つまりは自分で自分を学ばせる人、自分で自分を育てる人、ということである。英語にも「I taught myself」という言葉があるが、言われたことだけやってオシマイにするのではなく、常に研究して工夫しろ、となるわけである。
但し、仕事のために、資格のために、自己研修型の人になりなさい、といううのではなく、自己探求をする場所として日本語を教える教室、ゴールやとしての日本語を教える先生を見つけてもらえると僕は嬉しい。
美味しい料理をつくって、それを食べた人に喜んでもらえたら。そう思って研究や試行錯誤を重ねたり、それを着た人が満ち足りた顔をして街を歩けるように服をデザインする人がいるように、世界の構図は全く同じなのだ。
補足:
毎年実施される日本語教育能力試験の中でも出題され始めたので、要学習、確認です。関心のある方は、令和3年度(昨年の令和4年度分は未だ市販されていない)の過去問題をご覧ください。
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