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息子へ

 世の中は少しずつ元どおりの生活に戻りつつある。その結果が今日の陽性者3桁越えなのかもしれないが、私は政治家ではないしそう言った政治マターに対して明確な考えを持っている訳でもない。もっと極端な論者に言わせると新型コロナはただの風邪らしいが、ここではそれらについては書かない。


 先日、妻と息子と3人で浅草寺に行った。本当は前年度中には行きたかったのだがコロナの感染拡大でそれどころではなく、そのままステイホームでこの時期になってしまった。コロナが世界から消滅した訳ではないが、ちょうど感染者も減っていたので今のタイミングで行こうということになったのだ。万が一のことを考えて、移動には電車ではなく車を使うことにした。

 雷門前から入る地下駐車場はガラガラだった。おそらく、今までは朝一番に行くか運が良くないと止められなかっただろう。確かに今わざわざ浅草に来る理由はない。初詣と三社祭でなければ余程の下町風情好きな人間しか浅草には来ないのだ。

 雷門を潜り抜けると、いつもより仲見世が広く見える。普段だったら外国人観光客でごった返し、二人並んで歩くことすらままならないが、その時の混み具合は大きな駅前の商店街と大差なかった。すごい世の中になったものだ。

 早速浅草寺の境内に入り、お詣りを済ませる。去年はお詣りもせずに焦っておみくじを引いたばっかりに妻と私は揃って凶を引き、賽銭を投げ入れて引き直してもまた二人揃って末吉を引くという散々な結果になった。末吉の文面の冷たさは実質凶と何も変わらなかったので、気分的には連続で凶を引いたも同然だった。その上、私は凶でなければ財布に入れて1年間過ごすと決めているので、境内で結んでそのまま忘れられる凶よりも財布を開ける毎に悪いことが起きるという脅し文句を見せてくる末吉の方が質が悪いと言っても過言ではなかった。

 一通りのお詣りを済ませ、いざおみくじへ。私は浅草寺のおみくじの結果を全面的に信用しているので非常に重要な瞬間だ。しかも息子にとっては生まれて初めての経験だ。私が代わりに引くとはいえ、私たち3人の中に緊張が走る。

 それぞれ引きおわり、いざ番号の棚を開ける。神社やお寺でよくある小さく折り畳まれたおみくじより、大きな金属製の缶を振って箸くらいの長さの木の棒に描かれた番号の引き出しを開けるタイプの方が昔から好きだ。なんとなく特別感がある。

 結果、私が吉、妻が凶、息子は末吉だった。私の吉はかなり好意的な内容で、大吉とほとんど変わらなかった。凶は相変わらず徹底的に冷ややかで、引越しや旅行、出産などいずれの項目もダメとかよくないとか散々に書かれていた。面白いことに、私は今までのやり方を適宜変えながら大きく環境を変えるのが良いと書いてあって留学を後押ししてくれたように感じたし、妻のおみくじに書かれていた大人しく過ごせという言葉も子育てに注力しろってことかな、と本人も納得していた。息子も母(仏や神)に従って生きろと書いてあって、そうせざるを得ない息子にとってはぴったりな内容だった。おみくじは引いた本人がどう捉えるかが全てなので、それぞれが納得できるもので良かった。

 今回浅草にきた目的は終わったが、小腹が空いた。せっかくなのでスカイツリーまで足を伸ばし、ソラマチで何か食べようか、という話になった。

 たまたま通りがかったピザやパスタとワインが売りのお店に入った。夕方だったので客の入りはまだ少ない。この時期、しかも平日に客が殺到することはなさそうだが。今回は浅草を少し歩くだけの予定だったので、ベビーカーを持ってこなかった。しょうがないのでソファの席に案内してもらい、アルコールで消毒して息子を寝かせた。

 久しぶりにこういうお店に来た。車で来ているので酒が飲めないのが残念だが、それでもこういった雰囲気に触れるだけでもなんとなく楽しいものだ。バカデカいシャンデリア、赤や金が散りばめられたド派手な内装、大量に並べられた酒のボトル。カップル(に見える)人たちは楽しそうに話し込んでいるし、グラスを片手にパソコンを見つめて仕事をしているように見える人もいる。あまり子連れで来るようなお店ではなさそうだが、おしゃれで店の奥は大きな窓があって開放感もある。

 料理も美味しかった。フェットチーネのカルボナーラは家では出せない味だったし、レバーパテも濃厚でワインが欲しいなあと思わせるものだった。

 美味しい料理やなんとなく楽しい雰囲気の店内を見回していると、お向かいの席に座る妻の横で爆睡している赤ちゃんを見つけた。私の息子である。

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 今回のお出かけに際し、息子はスイカの服を選んだ。押し付けられたとも言えるかもしれない。特別可愛くて季節感もあるが、少なくともこの店の中で唯一別世界から来たような場違いな存在だった。兎に角この場で浮きまくっている。時々おしゃれすぎて理解不能な言葉が出てくるメニューや数ページにわたるワインのリストが置かれているバルで、スイカの服を着た赤ちゃんが一切何も意に介さず堂々と寝ている。しかも、物音や匂いにも全く反応しないほど熟睡しているのだ。

 それどころか、店員さんも寝ている息子に気を遣って、料理を運んできてくれた時に声を落としている。もちろん店員さんの優しい心遣いなのは間違い無いのだが、私の目には息子がおしゃれで大人の世界のはずのこのお店の一角を制圧しているようにさえ映った。

 もし私が息子の立場なら、あまりの場違い感に萎縮してしまうかもしれない。目立たないように泣きもしないが、かと言って堂々とはしていられないだろう。私は昔から勝手に空気を読んだつもりになって、何かを言われたり何かが起こったりする前から縮こまってしまうタイプなのだ。

 ところが、私の息子はひたすら眠り続ける。新しい客が入ってきても、大人が何をしていても彼には何も関わりがないことなのだ。眠いから寝るし、自分が周りからどう見えるかなんて何も意味しない。家で寝るときと何一つ変わらない可愛い寝顔で、息子はすやすやと寝息を立てている。周りがうるさいのでおそらく、だが。

 それをみて私は、兎に角愉快で笑いが止まらなくなった。最高に爽快だった。息子は場にそぐわないからと自分を恥じず、かと言って浮いている自分が逆にかっこいいと主張もしない。大人が大金を集め知恵を絞って作り上げたであろうこの店を息子は容易く自分の世界にしてしまった。暴力や破壊ではなく、むしろ何もせずに寝るだけで。私には決して出来ないことだ。

 ああ息子よ、どうかそのままで育って欲しい。周りに合わせることも時には大切だが、他人の目を過剰に気にすることなく、この日のように自分を貫いて欲しい。たとえ何もわかっていなかっただけだとしても、毅然とした寝顔を、父はずっと忘れない。

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