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よくわかるロウドウ冠婚葬祭~KKSSサイクル

2014年5月5日発行 ロウドウジンVol.8 所収

 冠婚葬祭とは、人が生まれてから亡くなり、その後に行われるものまで含めた家族的催事を指す言葉である。また別の言い方をしたら、現代においてなお慣習的に定まっている慶弔の儀式のことであり、慶弔とはすなわち祝儀と不祝儀である。会社で仲間内の集金をされるとき、そこには何らかの冠婚葬祭が関わっている可能性が高い(ただし、飲み会の事後集金を除く)。ただし、四文字熟語としては知っていても、その中身について詳細に知っているひとは、そんなに多くないと思われる。侃々諤々と同じくらいの知名度だろうか? とまれ、一緒に学んでいこう。

 まず第一に、冠婚葬祭は日本という風土との相関(土着性)が強い。それは日本古来からの人生観、霊魂観に由来する。そのような概念は、欧米のような諸外国にはないそうだ。また仏教的な世界観とも異なっているという。(狭義の)冠婚葬祭において、「冠」は元服・成人式、「婚」は婚礼、「葬」は葬儀、「祭」は祖先の祭礼を意味している。現代においては、婚葬はまだしも、冠祭はほとんど意味を失っている。成人式は自治体主導の催しはあるが、紋付袴のヤンキーが暴れている映像は食傷気味である。

 転じて、現代において冠婚葬祭は出費機会という側面も強い。それは主催者側でも、参加者側でも同様だ。結婚式や葬儀は、どうしてもピーク・ラッシュ的なものが存在する。自分の交友関係なり、親族関係になるのだから、いたしかたない。「ご祝儀貧乏」なアラサー女子も少なくないのではないだろうか。いざという時に備えた保険的な組織として、一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会などというものも存在するようだ。ホールインワン保険があるのだから、理解は難くない。ただし、人はいずれ死ぬ。確率はホールインワンより、高いかもしれない。

 冠婚葬祭には、もともと深い由来等もあったのだろう。しかし、現代においては、形骸化している。結婚式における「ファーストバイトの新婦から新郎へは一生美味しいごはんを作りますという証、新郎から新婦へは一生食べ物には困らせないという~」といった聞き飽きたエクスキューズのようなものは、男女雇用機会均等法以降の日本においてはゴーストのような存在だ。あえて言おう。古い感性であると。なぜ不祝儀は新札を使ってはいけないのか、お札は諭吉の顔が下になるように入れることにどのような価値があるのか、結納セットのスルメは「噛めば噛むほど味が出る」というスルメ曲的な意味のアレで良いのか? まあ、そういうことだ。駄洒落である。そして基本的にオプションを売りたい冠婚葬祭ビジネス屋さんのビジネストークである。日本の民衆仏教が葬式仏教と揶揄されるのも同じ理由だ。基本無料のアイテム課金ゲームのようなものだ(謎)。

 とはいいつつも、別に反社会人サークルは冠婚葬祭アンチというわけではない。われわれはもっと建設的な知能集団である。綿々と受け継がれてきた冠婚葬祭、そこに引き継がれているものは確実にあるだろう。いま一度、利権と形式にまみれた冠婚葬祭を分解・再構築し、われわれの冠婚葬祭を取り戻そう。

◇機能解放としての冠婚葬祭

 冠婚葬祭が人生における節目を表しているというのは前述のとおりだ。ここで着目すべき点は、「祭」の存在だ。すなわち、「祭」は死後の催事である。本人はすでに死んでいるため、主役は霊魂あるいは残された遺族である。前述の「人生の節目」という意図からすれば、主役は霊魂の方にある。これは日本の因習的な考え方が、やはりベースにあるといえよう。

 ちなみにここでは「冠婚葬祭」を狭義の意味で用いている。すなわち四大儀礼としての冠婚葬祭である。この言葉を広義の意味でとらえ、様々な儀礼を分類したものという考え方もあるという。そこにおいては、出産や七五三みたいなものは冠であるし、節分やいわゆる神事は祭に分類される。

 少し違った側面から考えてみよう。たとえば、冠婚葬祭は人生の節目であるから、テレビゲームのRPGにおけるレベルアップみたいなものとも考えられる。女性マルチタレントの中川某が、自身の年齢をレベルと表現したりもしているが、その定性的なバージョンだ。「人生のステージ」という表現もある。レベルが上がるとどうなるのか。これもテレビゲームを思い出せば簡単だ。使えなかった武器が使えるようになる。なつかなかったモンスターを操れるようになる。能力パラメタが向上する。すなわり、機能の解放といって良いだろう。WindowsAnytimeUpdateみたいなものだ。

 まず、冠はどうだろうか。これが一番わかりやすい。飲酒できるようになる。喫煙できるようになる。選挙権をもらえる。親の同意なしにいろいろなことができるようになる。もともと持っていたポテンシャルを発揮できるようになる、ということだ。これらは法律上の制約でもあるが、本質的には変わらないはずだ。同じことが婚葬祭にも適用できるのではないだろうか。婚は親や世間のプレッシャーや不定形な焦燥からの解放である。葬は人生という名の苦しみからの解放であり、また肉体という制約からの解放だ。祭はわずかにでも残された現世への未練・執着からの解放といえる。このように冠婚葬祭は機能解放のアナロジーとして考えることもできる。そしてまた、冠婚葬祭のアナロジーはあらゆるものに適用できる。以下に冠婚葬祭うさぎと題して、社会人人生における冠婚葬祭を考えてみた。

◇反社会人うさぎの冠婚葬祭

反社会人うさぎとは、ロウドウジンのマスコットキャラクタにもなっているネクタイをしたうさぎである。ロウドウジンVol.3以来、ひさびさにご登場願った。そんな反社会人うさぎに会社における冠婚葬祭を教えていただいた。(イラスト:@riots_i


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入社誓約書を手に頭を下げるうさぎ。その目に宿るのは希望の光か、それとも……。学生時代に脱色していた頭髪を冠代わりに黒く染め、心も黒ずむ下地が整う。


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最近はSNSでも、ゲームでも結婚はできる。ケッコンカッコカリというのも。サイヨウカッコカリ。セイシャインカッコカリ。運命のカイシャとの出会いにカンシャ。


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送別会という葬式のあり方。望まぬ転勤を命じられたものは、子会社という彼岸に向かい、決して帰ってくることはない。せめて最後は、社会人らしく。

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社会人にとっての祭は修羅場。古来為政者は民衆の不満を逸らすために政を行ったが、現代の経営者は過労で労働者の判断力そのものを奪い取る。

◇冠婚葬祭の循環性

 しかし、冠婚葬祭を機能解放だと考えると、祭のあとには何が待っているのだろうか? すべてのしがらみから解放されたあと、そこには何も残されていない。人は死んだあとは無になる。それは『DEATH NOTE』にも書かれている、世界の常識だ。

 しかし、冠婚葬祭が人生の節目というのは、ちょっと腑に落ちない部分もある。たとえば婚から葬のあいだが長過ぎる気もする。

 一般的に人生の四大ライフイベントは、誕生、成人、結婚、死だといわれる。こちらの方が読者諸氏も直感的に理解しやすいのではないだろうか。冠婚葬祭との違いは、「誕生」が入っていないで、代わりに「祭」が入っている。すなわち、ここにおいては人の一生は、死後も続いている。二周目を想定するなら、これは輪廻のサイクルだ。そのように考えた場合、冠婚葬祭と誕冠婚葬祭は、起点がずらされているだけだと解釈することもできるだろう。冠婚葬祭のように、最後を葬にしないことで、サイクルのエンドレス感が表現できている。最後が「死」だと、そこでエンディングを迎えてしまい、二周目以降を想定しにくくなる。

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子孫を順次作っていくという前提のもとに書くと、子の祭が親の葬のあとに接続されるように記述することができる。ことき、一方通行の破線(誕冠婚葬)と異なり、実線(冠婚葬祭)だと循環していくことがわかる。

◇冠婚葬祭の多重構造

 では、二周目というのは、具体的にどういうことなのだろう。さらっと「輪廻」という言葉を使ったが、生まれ変わった新しい人生が二周目なのだろうか。そのように考えることも確かにできる。しかし、別の考えもある。冠婚葬祭うさぎは「社会人人生」という、人生の中にあるサブ人生の冠婚葬祭の事例だった。同じように、あらゆるところに冠婚葬祭はある。冠婚葬祭のサイクルは、無限に連鎖していくのだ。繰り返される冠婚葬祭を通じて、全体のステージがスパイラルアップしていく……そんなスピリチュアルな妄想もできよう。

◇PDCAサイクルとの類似性

 この構造をどこかでみたことはないだろうか。PDCAサイクルというものがある。P(Plan:計画)、D(Do:実行)、C(Check:評価)、A(Action:改善)という一連の流れを示すこの考え方は、継続的な業務改善活動のためのマネジメント手法である。これは前述した冠婚葬祭の構造と酷似している。冠婚葬祭=KKSSサイクルというわけだ。

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PDCAサイクル

 具体的にPDCAにのっとった形で、狭義の冠婚葬祭を捉え直してみる。まず冠(P)は人生設計だ。これからどのような人生を進むのか、社会に認められた成人というスタートラインで計画が行われる。続いて婚(D)はその実行に相当する。家庭を持ち、人生を駆け抜けていく。そして葬(C)で、生前の人生を振り返り、良かったこと、悪かったことを振り返る。その振り返り結果は祭(A)として修正され、次のより良い冠(P)につなげていく。

 冠婚葬祭はこのようにPDCAとぴったりと重なる。PDCAをKKSSに置き換えると、また違った印象で物事を捉えることができるのではないだろうか。特に見方が変わるのは、D=婚ではないだろうか。Dというのは、Pにのっとった実施フェーズを指し、そこでは頭を使って考えたり工夫するのではなく、計画通りの遂行力が本来は試されている。しかし、婚はそういうものではない。Dを婚ととらえることで、すべては行動とフィードバックから構成され、小刻みな微修正のものとに成立することを否応もなく認識することになる。そんなことを未婚の筆者ですら感じてしまうのだ。

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KKSSサイクル

◇歴史は繰り返す

 人生の中には、多くの冠婚葬祭がある。そして、歴史は人が作り上げる。三段論法的に、すなわち歴史は冠婚葬祭の冠婚葬祭で成立している。つまり、メタ冠婚葬祭だ。

 現代日本における冠婚葬祭を考えてみよう。日本が冠を授かった、すなわち国家としての自立を認められたのは、1952年のサンフランシスコ講和条約だろう。主権を取り戻し、国際連合にも加盟した。その後、戦後復興の流れの中で東洋の奇跡とも呼ばれる高度経済成長を果たす。となれば、婚は1986年の男女雇用機会均等法ととらえても良いはずだ。さらに成長は続くが、その終わりはゆるやかに、しかし確実なものとして訪れた。葬は1991年頃のバブル崩壊だ。そして、失われた十年とも、失われた二十年とも言われる平成不況がいまだ続いている。すなわち、今は葬の時代であり、そのうち祭が訪れるはずだ。歴史が繰り返すならば。

 大澤真幸の用語を借りると、「理想の時代」「虚構の時代」そして「不可能性の時代」という戦後の三区分がある。これはそしてまた、前述の戦後の冠婚葬祭区分と奇妙な一致をみせる。冠=理想=Pのあとに、婚=虚構=Dがあり、葬=不可能性=Cがある。婚が挫折であることも憎らしいほど的確だ。共通する課題はひとつ。このあと待ち受けているのは、何なのか?

 しかし、よく考えてみると。ある日突然、祭がくるわけではない。その予兆はすでに表面に析出しているのではないだろうか。

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大澤真幸による戦後の3つの時代区分は、その師である見田宗介による戦後45年を15年ごとに区切った「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」を接ぎ木する形でつくられている。理想の時代は、敗戦後の日本が理想=アメリカを目指して生きた時代を指す。それはアメリカへの信頼の低下、すなわち安保闘争とともに下落していき、1970年頃のの連合赤軍事件で決定的に終了したといえる。そのあと訪れた「虚構の時代」は理想を失った、大量消費の時代である。時はバブル景気、ひとびとは記号を消費するようになり、家族のあり方も変遷していく。そして、連合赤軍事件を反復するかのようなオウム真理教による無差別テロをもって、終焉を迎える。そして迎えた「不可能性の時代」は、救済や希望のみえないリスク社会である。また現実「への」逃避としてのリストカットや、信仰抜きの信仰といった極端な虚構化という亀裂を抱えているという。大澤の区分では、時代は25年ごとに区切られる。次は2020年だが、奇しくもその年には東京オリンピックが予定されている。

◇そして祭=カーニヴァルへ

 祭。あらためてこの言葉について考えてみると、そんなに珍しいものではないことに気がつくだろう。たとえば、冠婚葬祭うさぎの「祭」になっていた炎上という比喩で語られる現象は、しばしば「祭」と呼ばれる。バカッターをはじめとするネット炎上も祭だし、脱原発デモやフジテレビデモのような騒動も祭だ。神事という意味での祭にしても、ゼロ年代以降に増えすぎた「ネ申」の存在は、確実に祭を大量生産している。実は現代はすでに祭の時代に突入していたのだ。

 大量発生する祭ではあるが、そこに終わりはあるのだろうか。そのターミネータは家入一真ではありえない。ただじっと次の「冠」がくるのを耐え忍ぶのか?

 そこで反社会人サークルはひとつの提案をしたい。ずばり、ロウドウカーニバルの開催である。ロウドウカーニバルとは何か。それは雇用の完全流動化、クラウドソーシングが一般的になった時代における、時代の推進力としての祭だ。

 ふりかえって考えよう。冠婚葬祭とは「家族的催事」である。現代のように、個の時代、共同体への帰属が自己を規定しなくなった時代においては、すでに発生している祭に参加することで逆説的に立ち上ってくる「共同性」が、この混迷の時代を終わらせるきっかけになるはずだ。その祭をどうやって継続的に安定供給できるのか。それがロウドウカーニバルである。ロウドウカーニバルは主に毎週金曜日の夜に新橋などで開催されている。そこで流動し、再配分される富とエネルギが、中長期的に、祭の時代に終止符を打つのだ。

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