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反社会人コラム「カフェ経営」

2013年4月14日発行 ロウドウジンVol.6 所収

反社会人サークルでピックアップした、いまもっともアツい反社会人たちに同一のお題でコラムを寄稿いただく競作コーナー。五反田に2013年2月にオープンした某Gカフェをはじめとして、いまカフェ経営が注目されている。そもそも「カフェ」とは何なのか? ビジネスとして、ライフスタイルとして、そしてアートとして。様々な「カフェ経営」像を寄稿いただいた。

魅惑のカフェ経営

 上司からのプレッシャー、協力してくれないチーム、やりがいのない仕事… 満足とはいえない日々に嫌気がさし、一国の主になりたいと思う。その中でも「カフェ経営」という響きは甘く、すぐにでも会社辞めてやろうか、と奮起させる。なぜ、サラリーマンは「カフェ経営」に魅力を感じるのか。仮説の域を超えないが、それには大きく分けて2つの理由があるように思う。

 一つには、カフェ経営を鼓舞するような開業に関する情報がインターネットに豊富にあることだ。

 Googleで「カフェ 経営」と検索をすれば、2,160万件の記事がヒットする。脱サラといえば真っ先に思いつく「ラーメン 経営」の記事が1,410万件であるのに対して、約1.5倍だ。また、Adowerds広告が非常に多いのもインターネットで情報収集しようとしている人の多さを裏付ける。余談だが、小学生女子の将来の夢第3位(※2007年2月内閣府調べ)の「ケーキ屋 経営」がわずか212万件しかないことを考えると、大人がインターネットで必死に「カフェ経営」と検索している姿が目に浮かぶ。

 次に、これが最も大きな要因だと思うが、「カフェ経営」は「好きなことを仕事にする=幸せ」といった就職活動で刷り込まれた価値観に訴えかけるということだ。

 ここに趣味人向けの本『散歩の達人 おこもりカフェ』(2014年4月発行 交通新聞社)がある。本書では、15のカテゴリーの「○○カフェ」が紹介されていて、「○○」の部分には「音楽」「本」「旅」「アンティーク」「映画」など趣味=コンセプトに関する文字が入る。だからなのか、本書ではコンセプト(趣味)に対する解説が豊富な一方で、肝心の飲み物や食事については全く言及されないか、されたとしても「手作り」「素材を生かした」「小腹を満たす」など味への評価は曖昧だ。それらの店も飲食物にこだわってない訳ではないのだろうが、カフェ経営において先立つものはコンセプト(趣味)であるのは間違いない。さらに、これらのカフェの経営は1人で行うのではなく、夫婦や仲間といった好きな人に囲まれていることも注目したい。このように、自分の好きな趣味や仲間に囲まれるということは多くの人にとって幸せと感じることであり、また都会砂漠でサバイバルする多くのサラリーマンが得られないものである。カフェ経営を行えばそれら両方が手に入ることから、魅力的に映るのではないだろうか。

 以上、サラリーマンが「カフェ経営」を魅力に感じる要因について説明をしてきた。最後に、20XX年春、私の友人らが期間限定のカフェを運営し、私も手伝わせてもらった経験をもとに、カフェ経営の魅力をまとめたい。本稿の検討通り、彼らのカフェ経営は「何か仲間でやりたい」という動機で始まったし、「チャリティー」というコンセプトがあった。正直、これら動機やコンセプトであればカフェである必要はないのだが、カフェが手段となっていることに注目したい。また、売上は思うように伸びず、ビジネスとしては面白いものではなかった。しかし、ある人はカフェ経営を通じて「仲間の素晴らしさ」を実感し、またある人は会社を辞めて世界一周することを決意した。まるで「笑うセールスマン」に「ドーン」とやられたかのよう、カフェ経営の魅力にハマってしまったようだ。

 人を魅了してやまないカフェ経営。人生を狂わすのか、成功させるのか。今後の「カフェ経営」に注目したい。

著者プロフィール
@chidarin (ちだりん) ①就職活動経験 博士課程への進学をやめ卒業直前で就職に進路変更。朝日新聞の「ひと」欄を見て電話した。 ②社畜歴 7年目の営業、成績はよい方(だった) ③将来の夢 会社に同調しすぎて夢を見失い中 ④コメント 好きなことをしたい

バクステから遠く離れる?

 AKIHABARAバックステ↔ジpass(以下、バクステ)という店舗がある。2011年の暮れにオープンしたこのカフェは、百名以上のアイドルキャストが在籍し、客は「プロデューサー」となって推しのキャストにポイントを投じていく。アイドルキャストたちは接客・給仕はもちろん、ライブパフォーマンスを行いプロデューサーにアピールする。

 この種の店舗はさほど目新しいものではない。そもそもこのバクステはつんく♂の仕事と一般向けには宣伝されることが多いが、近似のコンセプトを持つ「王立アフィリア魔法学院」をはじめとするアフィリアグループをプロデュースする志倉千代丸との共同プロデュースである。一説によると、志倉は秋葉原にアフィリアの店舗を開こうとしたものの叶わなかったため、つんく♂の力を借りたということらしい。

 では何が特筆されるかと言えば、そのつんく♂プロデュースという金看板である。一般への訴求力とは別にしても(むろんこのキャッチフレーズによって一般マスコミが耳目を向け、同種店舗とは比較にならない量の露出を果たしたのは事実である)、アイドルファンの中でいまだ大きな比重を占めるハロプロヲタ(以下、ハロヲタ)にある種の免罪符を与えることになったのだ。

 AKB48のハロプロに対する商業的な優勢が明らかになった時点から、ハロヲタの秋葉原という土地への眼差しは屈折したものになった。もともとハロプロと秋葉原には関係が薄く、同じくつんく♂プロデュースであるNICE GIRLプロジェクト!のライブのために今は閉店した石丸ソフト本店に足を運んでいた層は別にして、特段の意識はなかったと思われる。その上、「会いに行けるアイドル」といういまやクリシェとなった感のあるコピーに象徴されるように、劇場公演や握手会などファンとの距離の近さをアピールする手法で人気を集めるAKBグループに対し、やっかみを含んだ蔑みの視線を送るハロヲタも少なくなかった。つまりパフォーマンススキルで勝負する「我が軍」ハロプロに対し、「接触」という安易な方法でファンを獲得するAKBという図式である。初期のAKBはアイドルと直接コミュニケーションする機会は非常に限られていたからこの認識は正しいとは言えないのだが、ともかく一部のハロヲタを頑なにしたのは事実であろう(ちなみにこのような態度は「ワガグニスタ」として2013年現在局所的に揶揄されている)。その頑なさはハロプロおよびつんく♂仕事に対する忠誠心の裏返しでもあった。つんく♂プロデュースという殺し文句に殺されるのはほかでもないそうしたヲタであることは火を見るより明らかであった。大義名分を手にしたヲタがアイドルとのコミュニケーション、そして秋葉原という場所への認識を改めていくのにそうは時間を必要としなかった。当時ハロヲタのハロプロへの不満の一定の部分は、その規模と蓄積がゆえの「接触」の満足度の低さにあったと言ってさほど間違いではないと思われる。

 前置きが長くなってしまった。そのころの筆者は、毎週日曜朝11時から浅草ロック座はす向かいの路上ステージ―それはステージと呼ぶにはあまりにも簡素な、道路にビールケースを置いただけの場所―で行われる、NICE GIRLプロジェクト!研修生のフリーライブを生活の軸としていた。先述の通りつんく♂プロデュースであるこの少女達も、オープニングスタッフよろしくバクステ開店時にキャストとして駆り出されることになった。オープンの報を聞いた当初より、常設店舗に対してその常習性と費用面を警戒していたが、どうせ行くなら早いほうがいいと言い訳し開店2日目に赴いた。それ以降、特定のキャストとの会話の機会を求めて通うようになった。

 しかし実は、それはあまり長続きしなかった。最大の関心を払っていたキャストがバクステを辞めてしまったからだ。彼女は、ステージで歌い踊ることを望みNICE GIRLプロジェクト!研修生を選んだはずだが、想定していなかった接客業への従事を求められた。同じルートでキャストとなった研修生はほかにもおり、比較すると彼女は長続きしたほうなのだが、やはりそのギャップは解消できなかったようだ。ある日店に訪れたとき、「知っている人が来てほっとした」旨のことを言われたことがある。リップサービスはあったにせよ、偽らざる本音だったのだろう。

 実際のところバクステは、選抜キャストを「バクステ外神田一丁目」として編成し、外部のライブに出演したり、メジャーレーベルからCDデビューを果たしたりと順調に発展を遂げているように思われる(この例に限らないが、「メジャーデビュー」の意味がたとえば10年前から大きく様変わりしてしまった点には注意を要する)。キャストの選抜は「プロデューサー」が投じるポイントによって決まるので、アイドルとして華やかな表舞台に立つという彼女らの夢を実現させることができれば、プロデューサー冥利に尽きるだろう。店舗も毎週末になると常に入店待ちの行列ができるという混雑はさほどでもなくなったが、閑古鳥が鳴くこともなく開店丸一年を超えた。

 だが、と思う。現在筆者は、バクステには先に述べた彼女とは別のキャストが出勤するときに限り訪れるようになった。そのキャストと私は共通の話題があるが、選抜メンバーに入れるほどのプレゼンスがあるわけではない。その意味で私は気楽であり、選抜に入れるかどうかで気を揉むこともない。ひと月に一回ぐらいのペースで店に行き、会話を楽しみつつ、カフェの空間の空気の変化にある種の心地よい違和感を憶えるという遊び方をしている。私はそれでいい。しかしキャストたちはそれでいいのだろうかという懸念が拭いきれない。大きなお世話と分かっていつつ。

 ここで「アイドル」の定義を議論するのは避けたいと思う。紙幅があまりにも足りないし、私はそれをライフワークにしてもよいと考えているほど厄介だからだ。ただ特筆すべきは、「アイドル戦国時代」という行儀のあまりよくないジャーゴンが与えられたこのアイドルブームは、毎日メディア露出をする規模のアイドルから、バクステのような店舗型アイドルはむろん、小さなライブハウスや路上で歌を歌う(しばしばオリジナル曲を持たないことがある)規模のアイドルまでが「アイドル」という妖しげな力を持つカテゴリの中に収まっていることである。この情況におもしろさと同時に危うさを感じる。彼女らがアイドルに憧れてその道を志望したとき、たいていが規模の大きさがゆえの輝きに魅了されたのだろうと考えられる。あらゆるショーにおいて、ステージを眼差す視線の多さは、そのままステージの放つ光量に変換される。そうした華やかさと常設店舗は、とりもなおさず規模の意味で対照的な場所にある。ステージの煌めきは規模によって決定されるのではない、たとえ観客が自分ひとりであっても得難きステージは存在するという情緒的な反論はもちろんあるだろう。だいいち私がそうした可能性を信じている。しかしながら、そのある意味無邪気な欲望を抱える私のような観客が、場それ自体、あるいは場のあることの心地のよさを守ろうとするために、肝腎の彼女たちの憧れや夢を遮ってしまうことは、決してあり得ない懸念ではないと思うのだ。

(などと殊勝ぶったことを言いながら、いま私は中2・中1・小6からなる4人組ダンス&ボーカルユニット・Prizmmy☆とのコラボレーションメニューが提供されている原宿のCREAM BABY CAFEに行きたくてたまらない。本人の来店は予定されていない)

著者プロフィール
@noknowledge (せきね)1982年生。社業で果たせぬ思いを女性アイドルミニコミ『What Is Idol?』に溶かす入社7年目の会社員。足立区在住、勤務地は東銀座。


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