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反社会人コラム「ルーチンワーク」

2011年11月3日発行 ロウドウジンVol.3 所収

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 人間は進化する生き物である。

 決まりきったルーチンに慣れてしまうと、それ以上の刺激を求めはじめる。

 例えばスーパーマリオだ。マリオのゴールは面のクリアとその積み重ねによるすべての面のクリアである。ピーチ姫救出という目的のために、任天堂から配管工に課せられた使命はただその一つだけだ。だが、進化する人間は単なるゴールでは満足しない。ブロックに隠れたコインをあますところなく回収したりクリボーにもパタパタにもキラーにも被ダメを与えられることなく駆け抜ける速さを追求したり果てには倍速でのクリアを目指したりする。なぜか。

 人は単なるゴールを繰り返すことで、その快感に慣れてしまうからである。だから己の意思によって「縛り」を設け、さらなる高度なプレイを課し、クリアすることで新たな快感を感じるのだ。

 時は経ち、もはや毎日サルのようにマリオをする年齢でも時代でもなくなった。だが、目の前にはマリオのようにルーチン的で、マリオよりも厄介な課題が用意されている。それが仕事だ。

 この書類じゃあ明日のアサイチまでね、ごめん忘れてたけど得意先からのクレームメール返信しといてくれる? ……そしてあなたは答える、「わかりました」と。

 社畜に与えられた仕事の「ゴール」とは単なるステージ1-1のゴールでしかない。いわばビギナー向けだ。さあ、マリオを思い出そう。かつてマリオで30秒クリアを目指したように、単なる仕事の完了の、その先を目指そう。

 ルーチンワークを楽しめるものは日々の仕事になど振り回されていない。自分自身が仕事の主となっている。与えられた仕事が、自らの美学を実現するステージになったとき、人と仕事の主と従は反転するのである。対象と深く向き合い、いかに美しく、自分の思う最高の状態で仕事を完了させるか。それはもはや社畜の仕事ではない、例え社畜と虐げられようとも、それは匠の仕事なのだ。

 社畜よ、匠たれ。死んだ目をして日々モニタに心のこもらない文字列を打つよりも、いかに労力をかけず昔のPPTのコピペ組み合わせのみで提案書を作るか、いかに相手のメールに対して単語登録ワードのみで返信メールを作るかに燃えろ。

 ルーチンワーク、それは極限まで磨かれた作業工程に美を見出す修行、社畜から匠、そして神へと至る道なのだ。

※ただしいくらコインを取りまくろうとも、1-1をクリアできなければそれは匠ではなく単なるこだわりすぎの下手プレイであるということを、仕事においても忘れないでおきたい。あとは……分かるな?

著者プロフィール
@よめいち カニとイクラが好きな28歳。怖いものは通風。

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 辞書でひくと、ルーチンワークとは誰にでもできる決まりきった仕事、とある。ルーチンワークを熱心にこなすことは社畜の重要な特性である。

 ここで、ルーチンワークについてさらに掘り下げてみたい。ルーチンワークとは、会社の業務に限らないのではないか。《誰にでもできる、型にはまった仕事》、この定義に沿って考えを推し進めていくと、毎日の食事や風呂、同僚との飲み会、セックス、ありとあらゆることがルーチンワーク化していく。極論をいえば、生きることそのものがルーチンワークであるといえる。

 何の疑いもなく社畜になる人間は、ルーチンワークが成り立たせる大いなる社会システムに積極的に取り込まれていく。「より良く生きる」などのタイトルがついた新書を開けば、「全てに感謝の念を持ち、人の悪口を言わないように」などの白痴的文章が目に飛びこんでくる。これは不満も不平も持たない従順な人間を増やし、自分のいいように社会を動かそうとたくらむ為政者の陰謀である。このファシズムから解放されるためには、反社会人となるかメンヘラとなるかの二つに一つしかない(ニートは、その大半が《自身の信条の発露として意図的に働かない者》=反社会人、《働かなくてはと思うが精神に障害があり働けない者》=メンヘラ、の二つにわけられるので、ここでは独立したカテゴリーを作らないこととする)。メンヘラは反社会的行動が一般人よりはるかに許容されるのが魅力だが、自分で自分のコントロールができなくなるので、やはり反社会人サークルのコラムとしては反社会人化を勧めたい。

 反社会人は、この世のあまねくルーチンワークに逆らう気概を見せなくてはいけない。そのためには、飲み会をサボったり残業を他人に押し付けるだけでは十分ではなく、不利益を被らない程度に反社会的にふるまう必要がある。〈反会社〉から〈反社会〉への飛躍。赤信号を渡ったり年寄りに席をゆずらなかったり明らかに音漏れしているイヤホンを使ったり、公共の席に赤ん坊を連れてきている女を無断で写メったり、電車に轢かれた人間の内臓がめちゃめちゃに飛び散った話をレストランでしたり、そういった普段の心がけが大切となる。

 右に上げた事柄は私自身が常日頃から行っている反社会的行動だが、必ずしもこれらをそのまま真似る必要はなく、あなたはあなたに合う形で反社会を行っていって欲しい。その時こそ、あなたは人間性を取り戻した〈新=真・反社会人〉となれるのである。

著者プロフィール
サクラ一号 ささやかな反社会生活を営む反社会人女子。好きなものは死亡ニュース、嫌いなものは村上春樹。震災直後はいかなる形でも募金をしないよう、細心の注意を払っていた(値段に募金を盛り込む詐欺商品が多かったため)。某零細出版社に潜伏中。

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 ルーチンワーク。反社会人クラスの我々ともなれば、それは既に就業時間内には存在しない。そもそも私は社獄においてIT Developerという俗人である背景より、システム的な観点から他部署の円滑な業務を助長する立場である。システム障害があった時に連絡が来て、常に場当たり的な対応を強いられ対応するというスタンス。復旧が遅延した際の損失と隣あわせで日々を生きる中に定常的な作業など存在しえない。仮に語るとするならば、私のルーチンは朝、ムクリと起床した瞬間から「会社に行きたくない……!」という絶望的な想いから始まる。Tokyo Metro Oedo Line 英語がわからぬ下郎どもにもわかりやすく言えば「屍蝋出ずる冥府の門」地獄と紛いそうな日本一深きヘネ魔石鉱より、私は茫洋とした意識の中、気付けば天 (あま)へ翔けていた。無論、頂にある目指し場所はあの忌むべき社獄である。部内で一番に到来した私はそのことに少しだけ喜びを覚えながら、 PCの電源を入れる。 パスワードを手馴れた操作で入力したならば、 起動までの僅かな時間すらも待てずに、 ひたすらにIEのアイコンのある位置を目測で 16連射!(画面左部中央を血走った目で)ブラウザが5個ほど開かれたところで我にかえった私は ネットワークとの繋がりに恍惚とした表情を浮かべる。 こんな一日の始まりも悪くないな…… (溢れる喜びを体を激しく左右に捻るタイプのアクションで表現。 セイヤ! セイヤ! セイヤ! ノリノリな気分になったところで捻りすぎでイレウス(腸捻転)に。 後に出社した社員に発見された時には彼の体は既に冷たくなっていたという……) うわー、死んじゃったよ!

 ルーチンワークを追い続けた末のこの悲劇を鑑みるに、反社会人として正しい生き方はいかに就業時間中のそれの密度を高めるかということであろう。アトランダムな業務を繰り返す度に私達の心は磨耗していく。面倒な仕事は他人に押し付けつつ、ルーチンワークのみで一日を終えていくという絶対的に働いてはいるけれど……というスタイルが肝要である。それは夢、目指したいけれど甘えは許されず叶わないからダメリーマン。悲しいけれど、ここ、上場企業なのよねー。其処に存在していることそのものが不快以外のなにものでもない社獄という収容所の中で、思わず漏れる呪詛・怨嗟の囁きすら虚無と化す金色の不夜城の中で、劣悪ながらも一筋の光明を見出すため、私達がいくばくか快適に過ごしていくには一体どのような振る舞いが求められているだろうか。 如何様な命令に対しても己の思惑・道理を主張せず、仕事を速やかにこなさず、業務案件を前に悩むアピールを欠かさず(暫時、思案すればわかりそうなことであれ時には助力も求めよ)期日厳守であれば遅れず、そうでもない場合は状況に応じ、延期の交渉を申し訳なさそうに顔を伏せ、交渉に赴き(無論、適度な理由のでっちあげを忘れずに)、周囲の足を引っ張らない程度に凡庸以下の(10段階で言えば3~6)能力を発揮する姿勢。これが重要である。 それすらもルーチンワークとして意識せずに振舞えるようになった時、我々は一段高みの反社会力を見につけるだろう。時代の幕開けは目前だ!

著者プロフィール
デブリ なんちゃってIT技術者。趣味は社獄が爆破される妄想に耽ること。足の小指をタンスに引っ掛けてもがき苦しんでる時に、優しく抱きしめてくれる女性を募集中。夢見る三十路。

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【ルーチンワーク】 きまりきった日常の仕事。日常業務。ルーチン業務。

ルーチンワークなんてものは今のご時世、大概、自動化できる。
しかし、実際そこまで自動化されているものばかりでもない。依然として人の手に委ねられているものも多くある。
それは、単純な肉体労働的な部分ではコスト的に、人をバイトや非正規雇用者として雇った方が見合っているからだろう。
保険とか経理なんかの処理も多くはシステムを組んでしまえば今より自動化が進むと思う。実は既に実際の処理はPC任せで人間は客の対応をしているだけかもしれない。

SFでは、ロボット・コンピュータがほぼ全ての仕事を行い、人がやることがないことが社会問題になっていたりする。作品によっては人間全体の意思決定までAI任せにしている場合もある。が、ここではちょっと、世に言うルーチンワークまでが人の手を離れた場合を考えたい。

世に言うルーチンワークが人の手から離れた時、誰の手から離れるのかと言えばそれは多くはアルバイト、パート、非正規雇用者からだろう。
その時彼らはどうするのか?どうしなくてはならないのか?

彼らは、その時のマシンスペックでは実現が難しい、またはコストのかかる技術を身につける、もしくは、クリエイティブ系の仕事に就くべく創造性を養うかするしかない。
つまり、単純な作業しかできなかった人間は駆逐され、それらの人々はそれまでよりも高度な技術者になるか、創造性を持った人間になることを余儀なくされる。

過渡期においては自分を進化させることを嫌いロボット反対というデモをするかもしれない。生保に甘んじる人、路上生活者もでるかもしれない。しかし、過渡期が過ぎれば人はその状況を受け入れるだろう。そうした時、上述のスキルを持ちうるべく教育を受ける、研鑽を積むことになる。ということが想像できる。
が、人間ははたしてそれほどに勤勉になりうるのだろうか?

よく聞くパレートの法則に従えば、教育・訓練段階においても一定の割合の人間は怠けてしまう。そうして常に怠け者が存在することは避けられないのだとしたら、彼らを生かすためには彼らにもできる仕事がなくてはならない。
すなわちルーチンワークは最終的に、怠け者の働き場所としての意味を有するため、技術が進歩しても消されないかもしれない。
技術の進歩に任せてルーチンワークを人の手から離してしまった時、怠け者は社会に居場所をなくしてしまう。
居場所をなくした怠け者たちはその時どこへ行くのか?
未来にはどんな世界が待っているのでしょうね……?

著者プロフィール
@riots_i(理科乙類 )社畜育成環境に馴染めず、それらをdisる芸風。美術、マンガ、音楽とかが好き。音楽は特にBlues。鬱屈とした楽器の弾けないBlues Man。

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