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好きならそれでいいではないか

長らく無趣味を公言してきた。

本を読むのが好きだし、映画を見るのも好き。実家に帰ればピアノを弾くのも楽しいし、雪が降るとスノーボードに行きたくてうずうずする。

だが、「趣味は?」と聞かれると、逡巡したのち「それが特になくって…」と答えてしまう。

ぱっと思い浮かぶのは、毎晩の習慣になっている読書だが、どうも言いづらい。

「趣味たるもの一家言ないといけない」と無意識で思っていたのだと最近気づいた。楽しく小説を読んでいるだけなので、無論、言えることなどない。


ピアノやスノーボードが趣味だとも言いにくい。短歌や文章を書くのが好きだともほとんど言ったことがない。

きっとこれも無意識で、「趣味たるもの熟練していないといけない」と思っているからだ。技量がかかわる趣味は人には言いづらい。

趣味たるもの一家言なければいけないのか、
趣味たるもの熟練していないといけないのか。


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小さい頃はまっさらな画用紙に自分が思いついたものの絵を描くのが好きだった。だがいつからか絵は巧拙で評価されるものになり、評価されない私は「絵は自分には向いていないんだな」と思うようになっていった。

ずっと習っていたピアノも、上手な子は誉めそやされ、そうではない子は頑張って練習しなさいと言われる世界だった。

もちろん、技巧を鍛錬するのは悪いことではない。だが技巧だけが誉められるべきものなのだろうか?

ジャイアンは、技巧をすっとばしてはいるが自分の好きなことを披露するのに臆さない。みんなに「聞くに耐えない」などと言われながらも、ジャイアンリサイタルを開催できるのは、相当好きだからこそではないだろうか、

みんなが耳を塞ごうとも、倒れようとも、自分の好きなことに向き合う姿勢は拍手ものだと思う。我々ももう少し、ジャイアンマインドを見習ったほうがよいのかもしれない。

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最近読んだ、泉谷閑示さんの「仕事なんか生きがいにするな」にもこのようにあった。

私たちは何かを始める際に、すぐにプロのところに習いに行くことを考えがちです。しかし、これをあえてしないのも、別段何の罪になるわけでもありませんから、「遊び」としては面白いのではないでしょうか。

仕事なんか生きがいにするな

昨年末、ずっとやりたかった小説を書くのに挑戦したいなと思って、習いはじめた。が、「これがやりたかったのか?」とひとりもやもやしていた。

教室ではどうしても、読んでもらう・評価される小説を書くためにはどうするかにフォーカスが当たりがちだったからだ。

もちろん、プロの人がお金をもらうには受け手ありきだし、受け手目線の欠けた創作などエゴでしかないことは、曲がりなりにもデザイナーなので身に沁みて知っている。

だが、趣味の創作まで受け手のことを考える必要はあるのだろうか?
エゴでなにがいけないのか?


「遊び」とは、子供のような「好奇心」と「創意工夫」によって生み出されるものですが、既存の制度の中で「習う」ことによって、効率的に上達はしても、「好奇心」自体があべこべに萎んでいってしまうようなことが、案外、少なくないのが実情なのではないでしょうか。

仕事なんか生きがいにするな

習うのは技巧を上達させるためには早道だが、できる方法を発見したときの喜びや、試行錯誤する過程の楽しみが失われがちがだ。

小説に取り組みながら、「デザインとやっていることが同じすぎて辛い、、、」と言っていた3ヶ月前の自分に言ってあげたい。「試行錯誤してやってみるプロセスも『遊び』として楽しむといいんだよ」と。


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みんなが趣味を趣味として楽しむためには、当人の意識と受け手の意識、きっと両方とも大切だ。

当人も受け手もプロではないのだから、技巧を品評する必要なんてない。適当に披露して、適当に楽しめばいいのだ。

お金をもらうわけではないのだから、臆せず披露しよう。
お金を払っているわけではないのだから、適当に受け取ろう。

みんなが談笑している間に、自由にピアノを弾いてみよう。
心の赴くままに描いた絵を、リビングに飾ってみよう。
それっぽい字を、書家気分で書いてみよう。


「好きならそれでいいではないか」
これを胸に、2022年はジャイアンマインドで自由に趣味を楽しみたいと思う。

自分の指が奏でる音に耳を傾ける、自分の心と向き合って文章を書いてみる、氷を纏った木々を眺めながら雪山を滑ってみる、好きならそれでいいではないか。


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