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8月15日。パチスロ話と命を撮ることについて。

午前・リハビリ。
今日は何故か担当医とパチスロの話をしていた。

私は人生で一度もパチンコ・パチスロなるものをしたことがない。過去に一度だけトイレを借りるために入店したことはあるが、轟音と光と煙で体調を崩したので、パチンコ店に入るぐらいならトイレを諦めたほうが健康にはいいと思った。

担当医はパチスロの仕組みに詳しかった。台によって当選確率が違うとか7を揃えようとしても条件を満たさないと機械が意図的にズラすようになっているとか。

それらが事実かどうかはわからないし調べる気もおきないのだが、過去に同じような話を別の人から聞いたことがあるのでパチンコ・パチスロをする人達にとってそれは常識なのかもしれない。

色々と話をした内容をまとめると、

・パチンコ・パチスロとは店内にある当選確率の高い台を見つけるゲーム。
・基本的なルールや技術はすぐ身につくので個人の実力や努力は必要ない。
・プレイ中、強い光や演出によって感情を揺らされて依存症になる。
・パチスロをする人は「自分は勝てる」と思っている。

とのこと。
改めて私には必要のない文化だと思った。


午後・撮影。
8月8日と同じ撮影モデル・撮影現場での撮影。

↓8月8日の日記
https://note.com/rothkoroom7/n/n895a2abeb275

前回の撮影は無理をして手持ち撮影をした影響で翌々日まで首の痛みでダウンしてしまったので、今回はリモート撮影環境を設計したのちに岩盤浴をしたりご飯を食べながら遠隔シャッターを切っていた。

撮影の照明切り替えや設備調整も撮影モデルの方に行ってもらうことが多かったので、私はそれをスマホでモニタリングしながらシャッターを切っているだけだった。


写真で作品を作ることにおいてカメラを構える機会は少なくなり、撮影行為すらも不要な場合が増えてきた。

「ユウゲンの極光」シリーズは撮影方法をほぼメソッド化できたので、あとは設備費用や人件費の問題をクリアすれば完全にリモートワークに移行可能だ。(交通事故によってその問題が一番大きくなってしまったわけだが…)

「#alter;joint」シリーズは最初から私が一切撮影行為を行わずに制作しているものなので、こちらも変わることはないだろう。「人を撮る」行為を時代の変化と自分の思想を呼応させてきたが、今のコロナ禍においてそれは加速した。

「カメラマンとモデルによるポートレート撮影」はもう不要になりつつある。

撮影モデルはセルフィーで高画質な写真を撮ることが既に可能だったが、それが感染症によって重要性を増した。カメラマンやアシスタントと三密状況で撮影を続けることは倫理的にも今後は減らしていくべきだろう。実際、コロナ禍以降、撮影モデルをしていた方がセルフィーに切り替えて写真集を発売する動きも活発になっている。いくつか購入して読んでいるがクオリティも高いものが多い。

・・・という話は長くなるだろうし、既にそんな記事はいくつも上がっていることだろうから割愛。

命を撮ることが病や死によって変化する。とても自然なことだ。私はそれを受け入れよう。

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