映画:『1917 命をかけた伝令』

2020年日本公開/サム・メンデス監督

公開前から気になっていた作品のひとつ。本邦での公開時期が当時関わっていた作品の仕上げと重なったため、気づいたら劇場公開が終わっていた。

年末にネット配信で観ることになったけれど、結果的にいろんな部分を検証しながら何度も見返すことになったので、まあ劇場鑑賞にこだわらなくてもよかったかな、といまは感じている。

本作は(擬似的なものではあるが)全篇1カットで構成された作品である。

前例がないわけでもないし(後述)、いまや撮影の一手法でしかないのだけれど、どうも30年来の映画屋の性分としては、その「つなぎ目」がどこかを探ってしまう。結局、部分的にではあるが続けて3回ほど観ることになった。特撮映画で怪獣の背中のファスナーを探すような愚かさだ。

ノートパソコンの小さい画面を睨みつけて確認してみたが、おそらく3分の1も見つけられなかったろう。現在の映像合成技術の巧みさもあるとはいえ、その視覚効果(とくに視線誘導術)の妙に完全に欺かれた感がある。むしろワタシなどより現場メイク・衣裳の専門家のほうが、ほんのわずかな時間経過を敏感に見抜くかも知れないな。

全篇がひとつながりのシークエンスで描かれること自体は、作品によってはケレン味のひとつでしかなかろうが、こと本作にとっては流麗なドラマ構成上、不可欠な要素として駆使されている。鑑賞前にとくに聞かされていなければ、最後まで1カットの物語であることに気づかない観客もいるのではないだろうか。それほどにカメラの動きは的確で効率的だった。

かつてヒッチコックに『ロープ』という同様の手法を用いた作品があった。フィルムのロールが撮影可能な時間は、現在のデジタルビデオのメディア容量が持つそれとは比べ物にならないほど短かったが、それを解消するためにヒッチコックと撮影陣は様々な苦肉の策を打ち出した。たとえば、カメラの直前でわざと人物を横切らせ、それをワイプ効果としてそこでロールチェンジして同ポジションから撮影再開したことなどが、現在でもよく知られている。だが、そののちヒッチコックはトリュフォーとの対談のなかで『ロープ』撮影時の実情を語ったあげく、自らハッキリと言い放った。「映画の基本はカット割りだ」と。つまるところ、彼にとってかの作品で実現した「全篇1カット」は、もともとたんなる思いつきの所産だったのかも知れない。名匠の気まぐれが歴史的な異色作を生むことはある。そういうことなのだろうか。

本作は、最初から「明快な演出的意図」があってこの技法を採択した作品の好例だと記憶しておきたい。くしくも物語の舞台が第一次世界大戦時の西部戦線であるため、前半は狭い塹壕のなかでの移動撮影が多く、カメラ・アングルも人物の前後に固定されがちで、絵面がやや単調に感じる。ただ、その不自由な視点こそが、いつ終わるともない塹壕戦の息苦しさを伝えてもいて、やがて見晴らしのいい平原へ出たとたんカメラは奔放に踊りだすが、それでもなお人間の目線を基本として、極端なローアングルや俯瞰映像は依然として少なく、あたかも鑑賞者を「もうひとりの同行者」として戦場深くへと誘うのである。

このあたりの映像設計の妙味は本当に素晴らしい。いわゆる「長回し(長尺回し、ともいう)」は、通常的なショット撮影(カット割りに基づいた分割撮影)よりも効率的ではあり得ないものだ。まず撮影前の仕込みに時間がかかる。被写体(登場人物)が所狭しと動き回るのであればなおさらだ。カメラの動きを入念にシミュレートして、そこに映り込むすべてのガジェットひとつひとつをチェックしなければならない。そしてもちろん、演技者たちの準備の重要性については言わずもがなだ。撮影・照明とともに何度もリハーサルを繰り返さなければならない。それらのたったひとつでも不備があれば、目的とするフッテージを撮り切ることはできないのだ。そして、ミステイクすれば撮り直しにも時間がかかる。ショット撮影が現在でも好まれるのには、のちにエディトリアル(編集)を通して構成する視覚演出効果的な必要性以外に、現場作業の効率化という理由もあるのである。ところが本作は、あえてそれを捨ててでも果敢に「1カット撮影」に挑んでいる。これはたんなる一技法の選択ではなく、明確な演出方針だと言える。

そして作品全体を見渡す限り、この撮影上の演出は最大の効果を発揮している。撮影現場で創出された登場人物個々の動きや感情に「鋏を入れる(カットする)」という作為的プロセスを介在させないことで、鑑賞者は作品への没入感や主人公への感情移入を途切れさせなくてすむ(実際には長尺のOKテイクごとに採否の取捨はあるのだろうが)。

ストーリーに目を向けると、ほぼ2時間という作品の長さに比べて、とてもシンプルなもの。きょうびの作品としては、かなりの「薄味」と言ってもいいと思う。だが、通常の作品は数日・数週間にわたる時間のなかの見どころ部分を寄せ集めたもので、一種の「ハイライト(見せ場)集」であることを念頭に考える必要がある。それに、すべてがリアルタイムで展開される本作(多少の時間経過のジャンプはある)のなかで、さらに見せ場の濃度を上げようとすれば、鑑賞者の心奥で物語が飽和してしまうのではないかという危惧もある。鑑賞者の感受速度が主人公の感じ方に追いつけなければ、わざわざ難しい手法をとった意味が台無しになってしまう。ゆえに多少の物足りなさは感じつつも、概ね「適量」といえる物語の濃さだったのではないだろうか。

惜しむらくは、もう少し主人公の心模様の先に救いの光が見られればとは感じたが。ちょっと哀し過ぎる気はしました。でもそういう時代(しかも戦場)を描いた作品だからなあ。

よい作品だと思うのは本当で、賞賛すべき点はほかにいくつもあるが、まずはあえて困難な撮影方法を選び、そしてそれを見事にモノにした監督や俳優陣に対して敬意を表します。そして彼らを支え、ときには彼らよりも重い緊張を強いられたはずの撮影スタッフたちの働きを讃えたい。

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