見出し画像

なるようにしかならんもんです。

前回の投稿で、母が透析準備のためにシャントの手術を受けると書きましたが、その時のことをお話しします。

入院は、だいたい一週間の予定でした。
血液検査、尿検査、心電図をとってから、母が入院する病棟へ。
「今からお母さんは手術をするために入院するんやけど、明後日の手術日には私、来るからね。」と声をかけると、母は少し驚いていましたが、看護師さんに連れられて病室へ行きました。
その後、主治医の先生から改めて今回の手術について説明を受けて、私は帰宅しました。

手術日、病棟へ行き、点滴されながら車いすで手術室に移動する母を見送ったときにはいつもと違う様子はなかったのですが、手術後の先生との面談で色々大変だったことを聞かされました。
手術前には手術する箇所をペンでマークするのですが、そのマークを爪でごしごし擦って落としてしまい、書き直してもイタチごっこのようにまた母が擦り落とすという先生との攻防戦があったそうです。
普段、母はこんなタイプではありません。
シャントの手術自体は成功しましたが、術後、腕を曲げないように注意しなければならないのに、不安やストレスからか母が暴れて、それが原因でつないだ血管が塞がってしまいました。
病室へ戻ってもかなり興奮状態で、看護師さんたちも5分と目を離せないような状況だったようです。
結局、せっかく入院して手術をしましたが、透析を始めるには母の挙動に不安点が多いため、透析中に針を抜いたりして大量出血によって命を落とすなどの危険が否めないことから、透析は断念することになりました。

認知症のある状態で透析を始めても、いつか認知症がもっと進んでいったときに、週に3,4日、何時間もじっとしていられないようになる日が来るんだろうな…
そんな思いがあって、本当に透析がベストな選択なのだろうかと悩んでいました。
主治医の先生は腎臓専門医で、認知症の専門医ではないこともあり、私が透析をするかしないかで悩んでいると伝えて、透析しなかった場合どうなるのか尋ねたとき、「え、そこ?」という表情で、尿毒症症状について説明してくださいました。
「肺に水がたまって、溺れるような苦しみがある」という話と、「尿毒症症状が出始めたら余命は人にもよるが半年は持たない」という話が特に私を悩ませました。
極端に言えば、近いうちに溺れ死ぬのがいいか、余命は長らえるけど週の半分は長時間拘束されてだるさに耐え続けるのがいいか、本人でも難しいであろう選択を私がしなければならなかったのです。

今回、入院しても母は透析できるようになりませんでした。入院費用がかかりましたし、母にとっては、しなくてもいいストレスフルな経験をさせられたのかもしれません。
ただ、ひとつ意味があったと思えるのは、今の母にとって透析を選択することはリスクが大きいとわかったことだと思います。
入院当日になってもなお、「これで本当によかったのか…」と迷いが消えていなかった状況から、進むべき方向が見えてきました。
正直、そう受け止めるしかないというのが一番しっくりくる感じです。
腎臓専門医を前にして「透析するかしないかで迷う」と話したことは、「え、そこ?」という表情で見られたとしても、それは家族として当然思い悩むことだったわけなんです。

「透析しない」という決断で固まった以上、これで前に進んでいくしかありません。
透析をしない場合の症状の出方もひとそれぞれだそうで、溺れる苦しみを味わう人もいれば、食べられなくなって衰弱して、でも静かに最期を迎える人もいるそうなので、これから母の状況に応じて、やってくるできごとを千切っては投げ、千切っては投げ、対処していきます。
介護休暇のある職場ではないので、仕事を辞める必要も出てくるかもしれませんが、ケアマネージャーさんやソーシャルワーカーさんに色々相談して、わかったことなどは、また少しずつ投稿していこうと思います。

お母さん、お疲れさん!
もうちょい一緒にがんばろやー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?