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家族が犯罪者になったとき〜『手紙』

日本社会は、先進国のなかで犯罪者の家族が最も生きづらい国の一つでしょう。これまで殺人犯の親兄弟がどれほど自殺を遂げたきたことか。彼らは勝手に死んだわけではありません。自殺に追い込まれるのです。もちろん生きて人目を忍んで暮らしていく辛苦もまた想像を絶するものに違いありません。家族の中から殺人犯を出してしまえば、仕事はもちろんアパート一つ確保するのだって困難を極めるでしょう。数々の凶悪犯罪を遂行したオウム真理教の信者の子どもというだけで、学校にもまともに通えないことは当時も一部で話題になったものです。──これが良くも悪くも私たちの住む社会。

映画『手紙』は、殺人で服役中の兄をもった若者の話です。殺人犯の家族たちの悲惨を描いた近年の作品としては、円地文子の原作を小林正樹が映画化した『食卓のない家』が思い出されますが、本作とは設定も雰囲気もかなり異なったものでした。

東野圭吾の同名小説を原作とするこの作品では、兄(玉山鉄二)と弟(山田孝之)の二人の関係を主軸として、主に弟の人生行路の苦難が描かれます。すぐれて日本的なテーマに挑んだ意欲作であり、私は本作を推奨することに躊躇はないのですが、いくばくかの疑問点も残りました。

そもそも山田孝之演じる主人公の直貴が、職場では積極的な付き合いを忌み嫌いながら、目立ってナンボのお笑い芸人を目指す、という設定に無理を感じます。原作ではミュージシャンらしいのですが、あんな屈託に満ちたテレビ芸人は現実には想像し難い。最初にここで引っ掛かってしまったものだから、この作品に完全には没入することができませんでした。

直貴に絡んでくる周囲の人たちの人物造形も今一つリアリティに欠けます。好意を寄せる工場の同僚の女性(沢尻エリカ)は、その奇妙な関西弁はご愛嬌としても、どうにも押しつけがましいキャラクターと相俟ってあまり共感できる人物ではありません。後半でみずからの生い立ちを告げるのですが、殺人犯の弟という深刻な立場ととても同列化できるものではないでしょう。

お笑い芸人を諦めた後の勤め先の会長(杉浦直樹)は、ひょんなことから直貴の素性を知り「不当」な配置転換をしたあとで言い放ちます。
「差別のない社会はない。ここで生きていくんだ、ここで一からやり直すんだ」と。
素性が知れるたびに職場や住居を追われ、何度も一からのやり直しを余儀なくされてきたであろう人間に向かって、しかもその「差別」的行為にみずからも加担した人間が、なかなかこのような堂々とした言葉を吐けるものではありません。したがって、これは世間の不条理や欺瞞を象徴するセリフと理解すべきだと思います。

柄谷行人は『倫理21』のなかで述べています。日本には、欧米のようなキリスト教的道徳に基づいた個人主義がない、そのかわりに「世間」という得体の知れないものの力が働いているのだ、と。そのことをあらためて再考する契機になるのならば、映画『手紙』が作られたことの意義はより深いものになるでしょう。

*『手紙』
監督:生野慈朗
出演:山田孝之、玉山鉄二
映画公開:2006年11月
DVD販売元:日活

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