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「交通」することの困難と可能性〜『バベル』

映画『バベル』は「交通」することの困難と可能性を描いた秀作です。
ここに言う「交通」とは、身体や乗り物が移動すること、あるいは、心と心と通わせあうこと。文字どおり「交わり通じ合う」ことの総称です。

モロッコを旅していた米国人夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット)の乗ったバスに、子供が悪戯に放った銃弾が撃ち込まれます。弾は妻の肩に命中し、バス内はパニックに陥ります。海外での自国人救助に米国大使館は手間取ります。救援ヘリは、モロッコ政府の飛行許可を取るのに難儀し、観光バスは待ちきれず二人を見捨てて去っていく。異国の地で言葉が通じない困難と、救援のための移動手段が自由にならぬ困難が浮かび上がります。

米国人夫妻の子供二人を預っていたメキシコ人家政婦(アドリアナ・バラッザ)は、代わりの子守を見つけることができず、息子の結婚式に出席するのにやむなく子供二人を連れて国境を越えメキシコへと向かいます。結婚式を無事終えるも、帰り道の国境の検問に引っ掛かり、子供二人を連れて荒野をさ迷う羽目に。その過程で、この家政婦が不法就労者であることが明らかになります。ここでは国境を越えて往来することの思わぬ困難が描かれます。

「銃撃」に使われたライフルの前の持ち主だった日本人ヤスジロー(役所広司)は、妻を自殺で失い、聾唖者の娘チエコ(菊地凛子)と心が通じ合わない日々を送っています。言葉を自在に使うことのできないコミュニケーションの困難と、親子間のコミュニケーションのすれ違いが繊細かつ大胆に描写されます。

モロッコ、メキシコ、日本と3つの舞台で、4つの言語が飛び交い、不測の事態に人々は混乱し、孤独な心と心がすれ違う。
けれども、やがて救援ヘリが飛来し、一命を取り留めた妻と夫は絆を回復し、荒野に取り残された米国人の幼い子供たちは救い出され、日本人の親子は心を通わせようとします。
一方で、銃弾を撃ち込んだモロッコ人の子供とその父親の挿話には、救いがはっきりと示されることはありません。この作品における一つの苦渋の物語は、そのまま現代という時代へのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の悲痛な問題提起の声とも聴き取れます。

4つの異なる挿話のうち、日本を舞台にした物語だけは最初、他の挿話との関連が明らかではありません。やがて、国境を越えて移動した一丁のライフルにより不思議な縁でつながっていることが示されるという寸法です。物語の構成は、純ハリウッド映画のように洗練されたものとは必ずしもいえません。けれどもそのことがこの作品の瑕疵になっているとも思いません。連関性の希薄な、世界の断片のような挿話の重なり具合こそが、映画『バベル』にはむしろふさわしいのではないでしょうか。

タイトルの『バベル』が、本作の主題を端的に表わしています。
旧約聖書におけるバベルの塔の挿話を知らぬ者はいないでしょう。
……遥か遠い昔、人間の世界の言葉は一つだった。人間たちは神に近づこうと天まで届くような高い塔を建てようとした。その振る舞いが神の逆鱗に触れ、神は幾通りもの言葉を創り、人々の住む世界をバラバラにした……。

21世紀の今、私たちは、再び、無謀にもバベルの塔を建設せんと企んではいないでしょうか。「神の怒り」にふれるような奢りに満ちた振る舞いをしていないでしょうか。私たちは世界の「交通」の遮断を進めるような愚行を犯してはいないでしょうか? ……イニャリトゥ監督は、そのように問いかけているように私には思えます。

……人が住みやすい世界とは、何よりも「交通」を、より自由に、より奔放に、より闊達に行なうことのできる世界。私たちはその思いを胸にしてこの映画を見終え、そして反芻することになるでしょう。

*『バベル』
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット
映画公開:2006年10月(日本公開:2007年4月)
DVD販売元:ギャガ

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