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そして母は踊る〜『母なる証明』

母がだだっ広い野原でおもむろに踊りだす。摩訶不思議なテンションでこの映画は始まります。始まるやいなやスクリーンから片時も目が離せなくなります。名状しがたい緊張感とほのかなユーモアとが綯い交ぜになってこの映画は進んでいきます。

漢方薬店で働く母の一人息子が女子高生殺人事件の容疑者として逮捕されます。警察はおざなりの捜査で息子を犯人と決めつけ、多忙の弁護士もいい加減な仕事ぶりでまったく頼りにならない。母はしかたなくみずから真犯人をつきとめようと行動に出ます──。

ドン引きのロングショットで母を捉えて、状況に翻弄される人間の卑小さのようなものを描出するかと思えば、力強いクロースアップで観客の視線を強くいざなう。この母の顔を見よ、この薬草を切る母の手元を見つめよ、というように。
キム・ヘジャ演じるこの母親は作中では名前を呼ばれることはなく、まさしく「母」としての存在感を与えられているのみ。ちなみに父親は最初から不在であり、その経緯が明確に示されることもありません。一方、息子のトジュン(ウォンビン)は「とても美しい子鹿の目をした」純朴な青年。

ある事柄を成し遂げた時、母は思わず踊りだしたのでした。踊る母の姿がこの映画を決定的に特徴づけているように思います。
「踊る」とは「喪のときに近親者や弔問客が行なう、哀痛を表わすしぐさ」(新明解漢和辞典)を含意する場合もあります。
なるほど、人間の存在とは時に激しく、時に哀しい。あるいは激しいがゆえに哀しいというべきでしょうか。

それにしても「永遠に失われることのない母と子の絆」なんて日本の配給会社のキャッチコピーには芸がない。そんな陳腐なセールストークでこの映画を売ろうとする語彙の貧しさはあまりに反映画的ではないでしょうか。
ハリウッドの映画ジャーナリストはヒッチコックを引き合いに出して本作を絶賛していたけれど、それは面白い論評だと思う。なんといってもヒッチコックは「面白さ」に徹していたからこそ、人間の哀しさや恐ろしさをも表出してしまった人なのですから。

蛇足ついでにもう一点記しておきましょう。
ポン・ジュノ監督の堂に入った人物描写がやたら評価されているのですが、この映画の優れているのはもちろんそれだけではありません。ゴルフボールだとか鍼治療用の鍼を入れるケースだとか、小物の使い方が巧いのも大いに特筆されましょう。

このところ日本にやってくる韓国映画は充実の一語ですが、若き巨匠の手になる本作もまた映画の醍醐味にあふれた逸品です。

*『母なる証明』
監督:ポン・ジュノ
出演:キム・ヘジャ、ウォンビン
映画公開:2009年5月(日本公開:2009年10月)
DVD販売元:ハピネット

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