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ストイックな映像美〜『呉清源 極みの棋譜』

田壮壮監督の『呉清源 極みの棋譜』は、戦前から戦後にかけて活躍した中国出身の棋士の物語です。呉清源は、当時のトップ棋士たちを次々と打ち負かして「囲碁の神様」の異名をとりました。本作が公開された時点では日本に暮らしていて、冒頭に本人と夫人、それを演じた俳優たちが歓談している姿が映し出されます。(その後、2014年に他界しました。)

それにしても、何というストイックな映像美の世界。
黒と白の石を交互に碁盤に置いていくだけのシンプルにして奥深い囲碁の世界に拮抗すべく、いたずらに波乱万丈のドラマを煽りたてるでなく、感傷的で大仰な音楽をかぶせるでなく、田壮壮はあくまで、静かに、ノーブルに、画面を重ねていきます。まるで、棋士が一手一手、盤上に碁石を置いていくように。

過酷な勝負の世界に生き、賞賛を浴びた一人の人間を描きながらも、彼が相手を打ち負かす、その瞬間を決して映し出すことはありません。対局の部屋に向かう呉清源(チャン・チェン)と対局相手の緊張感にみちた姿だとか、対局後には出征していく相手との真心のこもった挨拶だとか、対局時間になっても姿を現わさない呉清源を待つ関係者のシーンなど、どちらかといえば、勝負そのものよりも、その周辺に漂う緊迫感や人々の人間性に共感をこめた描写が印象深い。
ただその中にあって、対戦相手が極度の集中のあまりに鼻血を滴らせて倒れ込む壮絶な場面は観る者を圧倒します。あるいは、広島での対局中に原子爆弾の投下にあい、部屋にまで爆風が押し寄せてくるのですが、それでも埃を払いながら棋士たちが対局を続ける場面の異様さはどうでしょう。あの歴史的惨禍の瞬間がこのように淡々と表現されてしまうとは。

人物たちのセリフに、無駄なものは何一つなく、否、必要な情報さえも多くの省略がなされていて、物語の進み行きは必ずしも明確に把握されるわけではありません。それを補うかのように、呉清源本人の綴った原作からの引用文が字幕として要所に示されます。そこで私たちはようやく息をついて事の推移のごくあらましを知ることができるので、あたかも映画黎明期のサイレントムービーのような様相さえ漂わせます。

それにしても、呉清源の棋士としての履歴や、彼が信仰していた新興宗教「璽宇教」への深い思い、川端康成との交友の実際(野村宏伸が川端康成を演じていることは劇中にそれを示すセリフもナレーションもなかったように思う)など、物語の骨格じたいを充分には理解することができません。呉清源の原作を読まない観客にとっては、いささか不親切な作りになっていることは否めないでしょう。したがって、こうした演出・脚本に関しては批判の声があがることは当然予想され、それに対して明快な反論を述べることは私には困難です。

けれども繰り返しますが、一つひとつの場面の濃密度、完成度もまた否定しがたい。病いに冒され入った療養所で、中国戦線での勝利に湧く日本人たちの歓喜にいたたまれず、呉が戸外に出る場面では、これといった言葉のやりとりがあるわけではないけれど、それ故に呉の複雑な思いが十全に描写されます。あるいは、随所に映し出される日本の自然に対する独特のアングルや構図、そのなかでの人物の配置のしかたなどは田壮壮の才気を感じさせてあまりあります。
何よりも、碁石を盤上に置く時の心地よい音、碁石の揺れるありさまが、これほど繊細に捉えられた映像を私はこれまで観たことがありません。

映画『呉清源 極みの棋譜』に共存する静けさと激しさは、まさに主人公・呉清源に内在しているものであり、それは昭和の激動期を生き抜いてきた一人の人間のあり方そのもののような気がしました。

*『呉清源 極みの棋譜』
監督:田壮壮
出演:チャン・チェン、柄本明
映画公開:2006年9月(日本公開:2007年11月)
DVD販売元:エスピーオー

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