オムニバス的人間ドラマの秀作〜『海炭市叙景』
九条にあるシネ・ヌーヴォは大阪では最もミニシアターらしいミニシアターの一つ。商店街から少しはずれた住宅街に位置するこの劇場は、池袋にあった旧文芸座地下劇場にもう少し温かみを加味したような作りと雰囲気とでもいえばよろしいか。面白いのはロビーの壁面いっぱいに、ここを訪れた映画関係者のサインがぎっしりと書かれていることです。新藤兼人、岡本喜八、長谷川和彦、柳町光男、大森一樹、平山秀幸、河瀬直美、行定勲、草村礼子、麻生久美子……。早坂暁や谷川俊太郎の名前もみえます。寺山修司の名も残されているのですが、はて、この映画館が出来たのは彼が死んだ後ではなかったか、と考えつつ上の方をみると「偽」の文字がくっついている。生前の寺山だったらきっと面白がったにちがいない、あの独特の筆跡まできちんと真似たその悪戯はいったい誰のしわざなのかな。
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佐藤泰志のさして優れているとも思えないテクスト(しばらく絶版になっていたらしい)を原作に仰ぎ、舞台となった函館の市民がいろいろな形でサポートして完成したという映画『海炭市叙景』は、当然ながら今どきのシネマコンプレックスに乗るような作品ではありません。シネ・ヌーヴォ様様です。監督の熊切和嘉もこの映画館に挨拶に来たらしく、壁に貼られたポスターにはサインとともに「根性入れて撮りました」の言葉が下手くそな字で添えられています。
前置きはこれくらいにしておきましょう。
映画では、18篇から成るオムニバス形式の原作から5つのエピソードが選ばれ、明確には名指しされない時代の年末年始に生きる人々の姿が描写されていきます。いうまでもなく映画化に際して物語の設定や展開にかなりの改変がほどこされていますが、すべてのエピソードに共通するのは、何らかの形で大切な「関係」が切断されたりすれ違ったりしている人間模様が描かれていることです。
冒頭におかれた〈まだ若い廃虚〉(各挿話の標題は劇中では示されない)は、市内の造船会社のリストラに伴って失業してしまう兄妹(竹原ピストル・谷村美月)の話で、二人はそろって勤めていた会社との関係が断ち切られます。
つづく〈ネコを抱いた婆さん〉では、産業道路沿いに残された古い家屋に住む一人暮らしの老婆(中里あき)が区画整理で立ち退きを求められている。すなわち長年住み慣れた土地との関係が損われようとしています。
〈黒い森〉では、プラネタリウムで働く男(小林薫)と夜の仕事に励む妻(南果歩)、父とは積極的に会話しようとはしなくなった息子という三者の関係が希薄化してしまった家族の挿話がかたられます。
〈裂けた爪〉では父の燃料店を継いだ若い社長(加瀬亮)が事業をうまく回せず、おまけに不倫していることを再婚の妻(東野智美)にも悟られています。妻はそのストレスから子供を虐待し、男は妻に暴力をふるう。家庭内の殺伐とした緊張関係が描かれます。
〈裸足〉は路面電車の運転士(西堀滋樹)とその息子(三浦誠己)の物語。東京で仕事をしている息子が仕事で地元に帰ってきているのですが、父の住む家には近寄らずホテルに泊まっている。父と子の疎遠な関係が簡潔な画面構成で点描されます。
それぞれのエピソードにはそれなりの余韻や味わいが感じられはするけれど、一つひとつを取り上げれば凡庸なもの。地方の疲弊だとか家族の崩壊だとか現代人の孤独だとか、それらしく冗舌に論じることも可能ですが、この映画をそんな月並みな問題に絡めて論じようとは思いません。
また、いささか説明的で野暮ったいクロースアップの多用やのっぺりとした街全体の俯瞰ショットなど、いくつか不満も残ります。
しかし、そうした欠点に目を瞑ってでも指摘しておきたい美点がこの映画にはあるように思います。私が何より面白く感じたのは熊切和嘉(&脚本・宇治田隆史)の時空間の処理のしかた。映画的というほかない表現力の発露がそこにおいて見出されます。
それぞれのエピソードは、何人かの人物が複数の物語を胯いで登場しているものの、本筋においては相互の関連性をもたず、はっきりとオムニバス風に描かれているといっていい。けれども後半にいたって路面電車を結節点にして人々が偶然隣り合わせ、あるいは、すれ違うことで、個別に描出されてきた挿話が劇中の当人たちにはまったく意識されない形で(観客のみが目撃する形で)束ねられるのです。それぞれの人物が様々な「関係」に傷つき、あるいは危機的な状況のただなかにあって、つかの間同じ時空間を共有する。それは彼らにとっておよそ意味を含むことのない、袖振り合うだけの希薄な関係には違いないでしょうが、特権的な立場にある映画の観客たちは、そこに人間社会のいわば眩暈を催すような生の錯綜を見ることになります。
それ単独では何の変哲もないありふれた映像でしかない路面電車の乗客たちとそれと交差する人間を捉えた一連のショットは、その何人かのささやかなドラマをすでに見てきた観客たちには、この映画の一つのクライマックスを構成するシークエンスとしてあらわれます。
あらためて自明の事実をいうならば、人々は電車や街の通りや市場やらにおいて、日々、このような意識されない遭遇を繰り返しつつ生きています。無数のエピソードを抱えた個人たちが存在し、彼ら彼女らによって無数の交差や接近やすれ違いが重ねられていく。それゆえに一篇の「叙景」は、背後に待機しているであろう無数の「叙景」の綴織りを想像させずにはおきません。
むろんそれもまたオムニバス群像劇のお決まりの感想といってしまえばそれまでかもしれません。が、いずれにせよ「映画とは編集のアートである」という言い古された格言がこの映画をみるとよく実感されることは間違いないでしょう。
また、登場人物たちが何気なく見るテレビのニュース番組を媒介にして、個々のエピソードの時間的同期が図られる趣向は、ラジオから聴こえるエルヴィス・プレスリーの歌声と銃声を反復して各挿話を結びつけるジム・ジャームッシュの『ミステリー・トレイン』を想起させもして、そこにも時制をめぐる映画ならではの語りの妙味を味わうことができるでしょう。
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どこからともなく人が集まってきて、一定の時間、人は同じ方向に視線を向けながら同じ時間を過ごす。そこが何らかの志を感じさせるシアターであるならば、志を同じくする人たちが壁に自分の名前を残しもするでしょう。そうしてまた、彼ら彼女らは街の喧騒のなかへと消えていく。ちょうど電車に乗り合わせた人々がつかの間同じ時空間を共有したあとに、それぞれの目的地へと散っていくように。
私たちは画面のなかに私たち自身の姿を見たのかもしれません。
──そう、映画『海炭市叙景』において、人は、他でもない自分自身が映し出された光景を目の当たりにして、当惑し、不安を共有し、かそけき生の鼓動を感じるのです。
*『海炭市叙景』
監督:熊切和嘉
出演:加瀬亮、谷村美月
映画公開:2010年12月
DVD販売元:ブロードウェイ