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光と闇をめぐる映画〜『武士の一分』

これは「武士の一分」というのも大仰な、妻を寝取られた男のごく凡庸な愛憎劇というべき物語です。ならば、退屈な作品であったかといえば、必ずしもそんなことはありません。木村拓哉扮する主人公の毒味役の下級武士が、貝の毒に当たって失明するところから話が展開していくことからも察せられるように、これはすぐれて映画的な主題、すなわち「光」と「闇」をめぐる物語であると定義し直すことが可能です。

主人公の三村新之丞(木村拓哉)たちが毒味をする部屋は「薄暗い」。それは、彼らの務めが形式化してさほど重要視されていない状況を表象しています。
視力を失った夫は、それ故に妻(檀れい)の顔を凝視して話すようになります。これまで照れ臭くて自分の目を見て話すことが少なかったのにと妻は夫の異常を予感します。いよいよ失明したことを夫婦ともに悟った夜、居宅の庭には美しい光を放つホタルが飛び交います。その幻想的な光景がいっそう失明したことの悲哀を浮き上がらせるのです。
「そろそろ、ホタルが飛ぶ季節だが、庭にホタルは飛んでいるのか?」
「いいえ、まだ飛んでおりません」

新之丞は、夢を見ます。ハッとして目が覚めた時には逆に暗闇しか存在しない。光をめぐる捩れた状況。苦笑とともに口にされたその新之丞のセリフが、その後、妻との関係について葛藤する彼の心奥そのものを暗示します。
妻のあらぬ噂を親類より耳打ちされた新之丞は、奉公人(笹野高史)に妻を尾行させて真実を知ります。妻の隠された真実が明るみになることによって、夫としての、あるいは武士としての苦悩が始まります。のちには、妻の行状には盲目なままに、つまり何も知らずに過ごせば良かったのか、と自問することになる苦悩が。

果たし合いで勝利を収め、その件について沙汰止みになって一段落した頃、飯炊き女として離縁した妻が戻ってきます。新之丞は光を失ったが、最も愛する者との絆を、より強い絆を手にしたのです。それ以上に輝かしい希望の光があるだろうか。そう問いかけて映画は終わります。

だが、それにしても、山田洋次の演出は相変わらず野暮ったい。
毒味の部屋の薄暗さも、ホタルの飛び交う光景も、映像の力で表現されるべき「光」にまつわる場面のいくつかが、いとも簡単にセリフで絵解きされてしまうのはいかがなものか。
松竹の国民的ドル箱シリーズ『男はつらいよ』の監督として「誰にでも分かる」映画作りに徹してきた山田洋次ですが、そこで映像ではなく言葉に依存してしまう姿勢に、私がこの監督を好きになれない根本的な理由があります。

*『武士の一分』
監督:山田洋次
出演:木村拓哉、檀れい
映画公開:2006年12月
DVD販売元:松竹

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