見出し画像

「土煙映画」の傑作!?〜『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

見ているだけでゲホゲホするような土煙を画面全体に活き活きと描いてみせた映画といえば、私のような単純な映画好きはジョン・フォードの『駅馬車』を真っ先に想起してしまうのですが、ここに我が〈土煙映画〉の歴史に名を刻む秀作が新たに一つ加わることになりました。アレクサンドル・ソクーロフ監督の『チェチェンへ アレクサンドラの旅』がそれ。

とにかく冒頭からエンディングまで、土煙がモウモウと立ちこめる様が見事なまでに描出されているので、それでなくても時節柄喉の調子が良くない観客も少なくなかろう、いっそうイガラッポイ感じがこみあげてきたのか、あるいは単なる客の気紛れなのかもしれないが、後方の座席からキャンディを口に入れるガサゴソとする物音が聴こえてきたりしても、この映画にふさわしいマナー違反として許す気になってしまいます。

この映画のカメラが捉える土煙は、いうまでもなく装甲車や兵士の行き交う戦争の最前線に立ちこめる土煙です。しかしその土煙は血の匂いを帯びていないという点がミソであり、この映画の特色ともいえます。

紛争の最前線、チェチェン共和国に設けられたロシア軍駐屯地。27歳の大尉に会うために、祖母のアレクサンドラが単身はるばるやって来る。オンボロの輸送列車に揺られ、装甲車に乗せられ、なんとかキャンプ地にたどりついた彼女は孫のデニスに歓迎された後、兵士たちと同じテントに泊まりながら、子供のようにあちこち歩き回ります。

検問を越えて現地のバザールに足を踏み入れたアレクサンドラは、ロシア語を話すチェチェン人女性マリカと仲良くなり、自宅にまで招待されます。ロシア軍の攻撃によって一部が崩壊しているそのアパート、部屋の窓からも破壊された一部分が見えるその場所で、アレクサンドラとマリカはお茶を飲みながらとりとめのない話をします。
「男は時に敵どうしになってしまうが、女は最初から姉妹なのよ」。
さりげなく発せられるセリフにソクーロフの鋭い機知ともいうべきものが込められているようです。
また、アレクサンドラとデニスとのやりとりからアレクサンドラの忍耐に満ちた生涯が示唆され、祖母と孫の絆がケレンのないタッチで描写されます。

ソクーロフのカメラワークは独特です。戦場における前線の物々しさを表現する場合の常套手法である俯瞰ショットやグループショットはあまり使われず、兵士一人一人の顔を慈しむかのように舐めていくパンやクロースアップが多用されているのが印象的。

やがて、デニスは5日間の予定で駐屯地を離れることとなります。急いで祖母に別れを告げ、部下を率いて移動してくデニス。何台もの装甲車がアレクサンドラの前を土煙を立てながら次々と通り過ぎていきます。そして、帰りの列車に乗りこむアレクサンドラをチェチェンの女たちが名残惜しそうに見送ります。

ここでは何一つ暴力的な事件は起きませんでした。
銃は発射されることなく、一人の兵士も血を流すことがない。ただ土煙の中を、あるいは夜の闇の中を歩き回る老婆の姿と、老婆と触れ合う若者や女性を通して戦争の不条理と人間社会のかすかな希望が浮かび上がってくるのです。

アレクサンドラを演じているのは、映画初出演のガリーナ・ヴィシネフスカヤ。世界的なチェリストであり指揮者であったムスティスラフ・ロストロポーヴィチの未亡人で長らくソプラノ歌手として活躍してきた女性。1940年代に録音された彼女の歌声が映画の中でさりげなく使われていて、彼女なくしてはこの映画は成立しなかったでしょう。

*『チェチェンへ アレクサンドラの旅』
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、ワシーリー・シェフツォフ
映画公開:2007年5月(日本公開:2008年12月)
DVD販売元:紀伊国屋書店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?