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一枚の写真がもたらした伝説〜『父親たちの星条旗』

「写真家は略奪もすれば保存もする。また告発もすれば神聖化もする」と言ったのは、スーザン・ソンタグでした。太平洋戦争時、硫黄島で撮られた一枚の写真が、硫黄島の死闘を「神聖化」し、海兵隊の3人の兵士たちを「英雄」にします。これは実話に基づいてその顛末を描いた映画です。

硫黄島に上陸した米軍は、壮絶な戦闘が続くなか、摺鉢山の頂上に星条旗を立てます。上陸地点を見下ろすその位置に掲げられた星条旗は、米軍兵士たちを鼓舞し士気を高めました。それを見た海軍長官は、記念にあの旗が欲しい、と言い出します。伝令係のレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)が代わりに掲げる旗を持って頂上に赴きます。電話線を引くために作業していた海兵隊兵士アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)ら4人に衛生兵ドク・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)、旗を持って行ったレイニーの6人が星条旗を再び摺鉢山に掲げます。その瞬間を撮った写真が全米のメディアを賑わし、厭戦気分に冒されつつあった国民にも希望を与えたのです。6人のうち生き残ったレイニー、アイラ、ドクの3人は米国本土に戻されて「英雄」に祭り上げられ、戦時国債キャンペーンに駆り出されます……。

この作品に描き出される若者3人は、戦争に翻弄され、政治に翻弄され、メディアに翻弄されます。もっと端的にいえば「国家」に翻弄される脆弱な「国民」の姿を示します。それはマックス・ウェーバーの「国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」という警句そのままです。
か弱き国民は、国家同士の暴力の応酬、すなわち「戦争」に巻き込まれ、生還してなお国家のソフトな暴力の行使としての「陰謀」に加担させられる。私たちは、さしあたって嘆息とともに呟くしかありません。国家の前では、国民とは一つの駒にしか過ぎないのか、と。
しかし、勝ち戦もまた癒されることのないトラウマや傷を若者たちに刻みつけるのだというメッセージは、必ずしも私たちに絶望感のみを与えるわけではないでしょう。

戦闘シーンが、凄まじい。米兵が銃弾に倒れ、倒れた兵士の亡骸が波打ち際に漂う様は、戦争の非情を伝えます。日本兵は、明瞭な姿を伴って米兵の前に現れることはなく、ただただ目に見えぬ敵として「恐怖」の存在として表現されます。

また、英雄に祭り上げられた三者三様の処世が丹念に描き分けられているのも要注目です。とりわけネイティブ・アメリカンのアイラへの差別的なエピソードを随所に配している点が本作を重層的なものにしています。

ドク・ブラッドリーが年老いて、病に倒れるシーンが冒頭におかれ、その息子が関係者に話を聞いていく、というフレームで話は進んでいくのですが、フラッシュバックによって時制が行きつ戻りつする手の込んだ構成が、本作を一層彫りの深いものにしていると思います。登場人物たちの苦難や葛藤が、時を超えて、生涯をとおして抱え込まれていたものであることを強く訴えかけてくるのです。
 
ラストシーンでは、摺鉢山にはためく星条旗が映し出されます。それは、幾多のシーンを見せられたあとでは、米国の栄光と誇りの象徴という単純な意味には収束できないものでしょう。その旗は、米国の、いや、国家というものが宿命的に背負わねばならない暴力性や老獪さをも同時に表象するものではないでしょうか。米国の資本で作られた映画において、かくも多義的な意味内容が込められて映し出された星条旗は、かつてなかったと思います。

本作は、日本の立場から撮られる『硫黄島からの手紙』とワンセットになっています。日米双方の視点から硫黄島の戦闘を描いたという「公平」ぶりが映画ファンのあいだで話題になりましたが、そのような「公平」が映画にとってさして重要とも思えません。私はこの一本だけでも充分完結した優れた作品であると考えています。いずれにせよ、この時代にこのような作品を世に送り出したクリント・イーストウッドは正真正銘の映画作家といえましょう。

*『父親たちの星条旗』
監督:クリント・イーストウッド
出演:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード
映画公開:2006年10月(日本公開:2006年10月)
DVD販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ

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