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ただ抱きしめてほしかった3歳の私へ

誰もが「好きでいてくれて、当然」と思うひとがいる。愛情を溢れるほど注がれても感謝もしないくらい、もしも望むとおりのものが受け取れなかったらいつまでも恨むくらい図々しく要求する相手。
その人は、生まれた時に、初めて微笑みかけてくれた。
自分の誕生を、待ち望み、喜んでくれた。
いつだって無償の愛を注いでくれて、自分の命を投げ打っても守ってくれるひと、のはず。
親。

でも、本当にそうだろうか?
親になったからといって、自動的に何かがバージョンアップして「良い親」になれるスイッチがあるわけじゃない。準備のないまま親になる人だっているだろうし、生まれてきた子供が自分の予想や理想とあまりにもかけ離れていて悩む親だっているだろう。

「親は無条件に子供を愛している。だから子供は親の愛情に感謝するべき」
ホームドラマや人情映画でよく描かれている、ステレオタイプとも言える「理想」を私たちは知らず知らず、刷り込まれていないだろうか。
実際は、いろいろな親がいて、子供がいて、親子関係は千差万別なのに。

刷り込まれた理想と現実が食い違っている時、人は戸惑い、様々な反応をする。
私自身も、随分と悩んできた。そして、子供の立場で親を批判したり評価した。
「親なら、子供の意見に耳を傾けるべき」
「うちの親は古い。今は時代が違うの」と。
子供は親の言うことを聞くものと信じ、実際大して親に反発もしないで大人になった私の両親は、さぞ戸惑ったことだろうと思う。ずいぶん衝突した。

親への不満を周囲に漏らすと、ほとんどの確率で否定された。
「あなたのことを思って、厳しいこと言ってくれてるんだよ。ありがたいと思わなくちゃ」
愛ゆえこその干渉だからどんな小言も、「愛情」だと受け取って当然、と言われてしまうと何も言い返せない。ただ、もやもやした気持ちを抱えたまま、俯くことしかできなかった。

もやもやした気持ちは、時々爆発して激しい反発となって親にぶつかった。
親は「娘から否定された」と感じてさらに厳しく叱責される。
「愛情」と名付けられた小言と、それへの反発。
互いに一方通行で、わかり合えているとは言い難い親子関係だった。
どうすればよかったのだろう?と今も私は時々考える。
私は、どんな風に自分の気持ちを伝えれば、自分の思いを親にわかってもらうことができたのだろう?

お互いに相手に対して深い関心があるのに、それぞれの思いが一方通行で分かり合えないまま時間が過ぎて、私は大人になった。
ある時点で見切りをつけて20代前半で独立することもできたのに、私はなぜか家に留まった。
「うちの親は古い。頭が堅い」と批判する一方で、「話せばわかる」と信じていた。「すれ違っても本音を言い合って、互いを認め合う親子」という理想を捨てることができなかったのだ。

「嫌なのではない、反発したいわけじゃない。私の準備ができる前に、レールを敷かないで。私は、お父さんやお母さんの望む人間にはなれない。私は自分の望むように生きたい。そして、そんな私をわかって欲しい」
喧嘩のたびに、そんな言葉ばかりを繰り返していた。                                     今振り返ると、もう少し学べよ、と自分にツッコミを入れたくなるくらい、あの頃の私は、言葉で反発することしか術を知らなかった。

わかって欲しい、認めて欲しい、ありのままの自分を受け入れて欲しい。
欲しい欲しい欲しい。
結局「子供だからわかってくれて当たり前」と甘えていたんだな、と今は思う。

そんな、もつれた糸をほぐすことに執着した20代の最後の年、
「自分が今、親に望んでいることは、きっと、おそらく、叶わない」と、ふっと、閃くように理解した。
わかって欲しい、欲しい、欲しい、と叫べば叫ぶほど、ただ反発して、自分の要求を押し付けてくるだけの大きな子供でしかない。

もうやめよう、と思った。もうすぐ30歳。不毛な言い争いに時間を費やしている場合ではない。世間から見たら、もう若いとは言えない。焦りもあった。
親になんと言われようと、思い通り生きよう。その代わり、言い訳しない。失敗しても成功しても、全部自分で責任を負う人生を生きよう。

強い意志を持って行動を始めると、親の方が私を思い通りに動かすことを徐々に諦めていったように思う。

それでも親子というものは互いに「親なんだから、子供なんだから」という甘えがあるものらしく、ことあるごとに「今度こそ分かり合えるのではないか、今度こそ理解してくれるのではないか」という期待がひょっこり顔を出す。でも、うまくいきそうでうまく行かない。なかなか互いに笑顔になれる着地点は見つからなかった。
どうすれば、理解し合えるのだろう?永遠に解けないパズルのように、その問いは時に大きく、時に影に隠れて、常に私にまとわりついていた。

 ある時、師と仰ぐ人が言った。
「子供を捨てる親はいても、親を捨てる子供はいない」
その時、いろいろなことがすうっと理解できた。私は、自分がただの甘えた子供でいつまでも親に要求ばかりしている子供っぽい大人だと思うことをやめた。
自分を理解してくれない親でも、捨てられない。
そのことを、自分がわかっていればいい。
甘えたり、期待したりする度に自分を責めることはやめよう、と思った。
親に理解して欲しい、と思うことは子供として自然な「欲」なのだから、自分に許すことにした。

それで、関係が良くなったり親に変化がみられたかといえば、そうでもない。ただ、私の方が少し気楽になった。親の期待には応えられない分、全てを自分で受け止める覚悟のようなものができたのかもしれない。

そして、私も親になる時がきた。

長男を授かった時から、散々反発してきた自分の親のようにはなるまい、と思っていた。
親に望んだことを、子供にしよう。無償の愛を注げば、親子関係はそんなに難しいものにはならないはず。ありのままの子供を受け入れて、ただ太陽のように彼を照らし、栄養を与えればスクスク育ち、自然と彼の才能の芽がぐんぐん育って大輪の花を咲かせるだろう。
決して、レールは敷くまい。彼の後ろに道はできるのだから、と。

今もその気持ちに変わりはない。
でも、子育ては思っていた以上に私の体力を消耗させた。とにかく、休みがない。いつも睡眠不足で、気分転換することすらままならない。息子の笑顔や寝顔には1日に何度も癒されたし夫も協力的だったけけれど、それでも時々どうにも煮詰まってしまい途方にくれた。
そんなある日、頑固にいうことを聞かず動かない長男の手を、私は強く引っ張ってしまった。それまでは辛抱強く彼が動くのを待っていたのに、その時だけは日頃のイライラや焦りが募って、自分の思い通りに動かすのが、彼のためでもあると信じてしまったのだ。

その時の息子の顔を、私は今も覚えている。
味方であるはずのママが、自分を支配しようとしている。
強い抗議と裏切られたことへの落胆が、ありありと顔いっぱいにあふれていた。その瞳の色を見た瞬間、すぐさま私は後悔した。あれほど反発してきた親と同じことを、今、してしまったのだ。

なんてことをしてしまったのだろう。
すぐに息子を引き寄せ抱きしめて「ごめん」と謝まった。       「ごめん」と口に出す前に、3秒ほどの躊躇があったことを告白する。

「君が、その気になるまでママは待つよ。いつまでも待つ。ごめんね、ごめんなさい」
ちょっとの間、息子は固まっていた。
「引っ張ったりしてごめんね。大好きだよ。ごめんね。ママが悪かった」
「びっくりしたよ」
息子はそう言い、そっと私の背中を撫でた。
愚かな母親の背中を、そっと。

その時、気づいてしまった。
私は、わかって欲しかったわけじゃない。
こんなふうに抱きしめて欲しかったのだ。小言は愛情なのだと説明されるよりも、ただ「大好きだよ」と抱きしめてもらえていたならば。次に私が発する言葉は、違っていたかもしれない。「私も大好きよ」と伝えてから、自分の願いを伝えることができたかもしれない。

そう思った途端、とめどなく想いがこみ上げてきて、しばらくの間、部屋の隅で3歳の息子と抱き合っていた。

時間は戻らない。
私は3歳には戻らないし、両親は年老いていた。今さら、サラの気持ちになって向かい合うにはいろいろなことがあり過ぎた。
父は去年亡くなってしまった。
伝えられたこともあるし、亡くなってから気づいたこともある。残念ながら私たちの最後の会話はやっぱり喧嘩だった。私たちらしいとも言えるし、後悔もある。

この後悔は、多分、消えずに生涯持ち続けるのだろう。でも、それでも私は、誰かとわかり合うことを諦めたくない。
だから両親に向き合うのではなく、自分の子供をできるだけ抱きしめて、「大好き」と伝えることにした。恥ずかしいことに、あれから何度も子供には謝まっている。さすがに手を引っ張ったりすることはないけれど、感情的に大きな声をあげてしまって落ち込むことはしょっちゅうだ。
その度に、「やってしまった」と反省しつつ、「ごめんね」と小さな身体を抱きしめる。子供たちはもう慣れっこで、「またか」と言う顔をして「はいはい」と私の背中をたたいてくれる。

そのたびに、不思議な感覚がある。自分が癒されていくのだ。しかも、母親としての自分ではなく、昔、叱られていたばかりの3歳の自分が。こんなふうに、子供の頃の願いが叶えられるとは、考えてもみないことだった。こんな方法があったのか、と目が開く思いだった。

諦めなかった自分へのご褒美かも、と思って私は今、時々、3歳の自分を抱きしめている。

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