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アンズ飴        その12

 ▽▽さんは実に男前な顔をしていた。額が縦にも横にも広く、左右の眉は漢字の一の字を筆で書いたようにこめかみ向かって立派で、クッキリとした二重まぶた、鼻頭も大きい見事な鷲鼻、唇は小豆色をしてドンと存在感がある。全ての要素が絶妙なバラスで顔を構成している。そんじょそこらに居ない、油切った男性的な色気があった。もしかしたら夜も絶倫かもしれない。
「貴方が、○○(彼女の苗字)が言っていた予備校のときの彼氏ですか。会えて嬉しいです」
 ▽▽さんは慣れた動作で握手は求めてきた。僕は握手に応じつつ、
「今日の芝居、面白かったです。具体的にとは、聞かないでください。お芝居を観るのはほぼ素人なものなので」
「そうですか。今日の芝居楽しんでくれましたか。面白かったらいいんです。難しい感想を求めるような芝居でもないですからウチの芝居は」
「▽▽さんが○○さんを演劇の世界に引き入れたんだって、彼女から聞きましたけど……」
「いやー、四月の大学の新入生歓迎イベントにOBとして参加したら、キャンパスを歩いてる彼女を見かけました。最初日○大に通う芸能人かなと思ったんですが、芝居や演劇に興味があるなら話してみたくなりまして、話しかけたら、幸運にも○○は自分は事務所に所属しているタレントでもない、芝居も演劇も見たことがないというので、ラッキーだなと思って、その日から連れ回して、最終的にウチの劇団に落とした訳なんです」
「最初に声をかけられてときにあビックリしちゃった。新歓イベントを見て回ってキャンパスを歩いていたら、助教授くらいの年齢の男性からいきなり声をかけられたから」
 僕との付き合い始めといい、彼女はいきなり付き合いを求められると驚きつつものってきて、そのまま付き合い始めるクセがあるようだ。
「○○さんとても幸せな顔をしているので、芝居の世界に引き入れてもらって良かったんじゃないですかね」
「えー、なんだか予備校の時にわたし、不幸せな顔をしていたみたいじゃない。一年前も、毎日充実したけどな」
 社会勉強をして早く大人に成りたいと思っていた彼女、本当に充実した毎日を送っていたんだろうか。三人の男と同時に付き合って、心の隙間を埋めるようにSEX面では充実していただろけど、妊娠して人工中絶まで経験して、三人の男たちと別れて。
 僕と別れた時に、他の二人とも別れたんだろうか。まだ他の二人とは付き合いが続いているのかも。ふとそう思った。
「予備校の教室でも楽しそうだったものね。○○さんはどんな場所でも幸せを見つけ出す才能があるから。ただ今も幸せそうだなと思っただけ」
「当初の希望校に行けなかったから、落ち込んでいると思った?」
「○○は、日○に入るつもりなかったんだ? 第一希望はどこ?」
 ▽▽さんはわざとらしく驚いて見せ、彼女に聞いた。
 ▽▽さんを改めてみると、皮の肘当てが付いたツイードのジャケット、ピンク色のシャツ、銀細工が付いた紐タイ、オフホワイトのチノパンという格好が、小、中学校の美術教師か音楽教師のような姿だなと見えた。
「青山○院大学だったんです。現役の時も一浪した時も第一希望は青山だったんですけど、勉強があまり好きじゃなかったんですね、そこそこしか勉強しなかったのでまた落ちちゃった」
「ああそう。青山だったんだ。じゃあ、そっち受かってたら僕と出会ってなかったね。今ごろモデル事務所にスカウトされて、an・○nとかJ○とかのモデルやってたのかもしれないな。人生の分かれ道は残酷で面白いねぇ」
 ▽▽さんは、人生は残酷で面白いねぇ、と僕に同意を求めるように顔を向けて頬笑んだ。
「いまからでもモデルできるんじゃないですか。劇団に所属しながらテレビに出たり、別の芸能活動をしている演劇の女優さんみますよね」
 彼女は顔を赤らめた。▽▽さんは彼女を自分の元から離したくないのか、
「まだ彼女は芝居を始めたばかりで基礎がないから、毎日きっちり基礎練習をしないといけない。二足の草鞋を履くような余裕はまだまだないよ。基礎から応用、応用の時期にモデルやテレビタレントも仕事をするのは良いと思うよ」
 言ったあと彼女の背中に腕を回して、脇の下から▽▽さんへ抱き寄せた。引き寄せられても彼女は嫌がらなかった。
「大切な時期なんですね。じゃあ学校との両立が大変だ」
「いつか芝居と学業の両立が大変になったとき、どちらか一方を選ばなければならないかもしれない」
 彼女は▽▽さんの今の言葉を予め聞いていたのか、芝居と学業のどちらかを選ばなければならいと聞いても驚いた顔をしなかった。
「それに芝居はとてもお金がいるんだよ。劇団のほぼ全ての団員がアルバイトをしている。彼女にもアルバイトをお願いしているんだ。学業と芝居の稽古とアルバイトの生活を維持していくのは大変だと思う」
「**君が知ってるとおり、学費は出して貰える約束だから、学費分の残り三年分を当てればお芝居の資金の足しになるんじゃないかと思うんだよね。まだ大学を辞める踏ん切りがついてないんだけど」
 青○大を諦めるだけじゃなく、大学の卒業すら諦めることになる分岐点に彼女はいる。人生の坂道を転げ落ちているとは言えないかもしれないが、Y路地Y路地に当たる度に右の道、左の道と彼女が選んだ道は、当初彼女が思い描いて未来(ゴール)から少しづつずれて行ってるんじゃないか。
「▽▽さんもアルバイトをするほど大変なんですか?」
「僕は、夜は赤羽の飲み屋で雇われマスターをしているよ」
 なんとなく男前な顔とだいぶ古くさい格好が、芸能人くずれっぽい雰囲気だったから僕は納得した。
「昼間は劇団の仕事で忙しくされて…」と僕は▽▽さんに聞いた。
「いや、昼間は学習塾の講師をしている」
 ▽▽さんは僕の言葉尻に被せるように言った。
「劇団では、僕の仕事はあまりないいだ。事実こそウチの劇団の立ち上げ当時からメンバーの一人だけど、脚本にも演出にもタッチしてないから」
「広報とか宣伝とか、営業とかの外回りの仕事もあると聞いてますけど、一般的に」
「広報、宣伝、営業も僕はタッチしてない。カッコ良く言えば僕は役者一本で劇団に関わってる。まあ、ときどき映画や大規模な舞台、ミュージカルのオーディションは受けるけどね」
 ▽▽さんは長年かけて磨いたであろう芸能人スマイル、白い歯がキラリと光る笑顔を見してみせた。
「でも彼女を出演させる力はおありである。劇団の中心俳優だからですね」
 僕は自分で言って、言ったあとにだいぶ嫌みだなとすぐに反省した。
「誰がそんな話し、貴方に吹きこんだの?」
「ん……受付の女の人から、さっき帰る前に…」
「あー、◇◇◇さんかな。余計なことを聞かせたようだね。彼女、最近事務ばかりで出演機会がないから、座長に対してだったり、初出演した○○だったりに嫉妬しているんだろうね。ご免ねつまらい話しを聞かせちゃって」
 ▽▽さんの話を隣で聞きながら、彼女はうんうんと頷いていた。たぶん、◇◇◇さんなり誰かから彼女の初出演に対して不満が聞かれたのだろう。その度に▽▽さんが劇団員を言い含めたり、説き伏せたりしてきたんだろうと思った。
「ん…まあ、僕は部外者ですから、何がどうということでもないんで。(謝ってもらう必要ない)ですから、彼女が元気に楽しく…顔を見られたんで、今日は良かったです。じゃあ、ありがとうございました。お疲れ様でした」
 時間的に十分挨拶はできたと思ったので、僕は頭を下げた。
「えっ、もう帰る?」と彼女が反応した。
「一緒に打ち上げ、どう? 紹介したい人間いるんだよ」
「いいえ、いいえ。今日はこの辺で、帰りたいと思います。それに僕、お酒ダメな体質だから、すみません」
 もう一度、今度は深々と頭を下げた。
「あっ、アルコール、ダメ! しょうがない。しかし社会人に成ったらアルコールの席は必須だよ。学生のいまから鍛えておいたほうが良いな」
 お酒が飲むシチュエーションは避けようと思えば避けられる。多少の人間関係の広がりが希望通りにならなくても腹をくくれば。それに遊ぶとか趣味とか、人はアルコール以外の息抜きも持っている。そちらで頑張れば回り道でも繋がられる人へは自然と繋がれると思う。
「そう……、**君、また電話するから。次の公演の時も見に来て。もっとセリフがもらえるように頑張るから」
 劇団に入って演技が上手くなった訳じゃないだろうけど、彼女はすごく寂しそうな顔で僕を見た。新宿のあの時でさえ、最後までこんな寂しそうな顔はしなかったのに。今になって僕に対して、いやいや、いやいや…………。

 二人と別れて下北沢の駅に向かいながら、僕は思い出そうとした。
 ▽▽さんの出演シーンをまったく思い出せなかった。彼女の出演ばかりを気にしていたから、▽▽さんの事は見えてなかったんだろうか。
 ▽▽さんは今日公演に出ていたのだろうか。
 本当に頭に残らない芝居だったと感想らしくない感想を持った。駅に続く両側の店からアルコールの匂いと、大声で話す声が聞こえだした。僕は帰りを急ごうと足を速めた。
 好きだったけど――彼女への義理は終わった――彼女の今後は僕にはもう関係ない。
                           (つづく)

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