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人間は考える葦である

「鷺と葦」鈴木春信画

信仰を持つ者には守るべき掟があるので、「神を冒涜する輩を受け入れよ」てのは困難かもしれないが、無神論者の自分にとっては何に背くワケでもないので、神を信じる者を受容するのに障害は無くってよ、パスカルは同志だと思えるし、トマス・アクィナスを師と仰いでたりもする

まずはパスカルの残したメモ(断章)の中でも最も有名なフレーズ

人間は考える葦である

ブレーズ・パスカル『パンセ』断章347(ブランシュウィック版)

についての考察から始めよう

さて、人間の例えになぜ【葦】を使ってるのかは、恐らく殆どの現代日本人には意味不明だろうが、西洋では群衆を形容するのに【風に揺れる葦】が使われてて(英語と仏語で確認)、この【風に揺れる葦】は『新約聖書』のイエス・キリストの言に由来してる

とはいえ、【葦】の例え自体はイエスがオリジナルでなく、ユダヤ民族が古来より使用してて『旧約聖書』においてもしばしば人間は【葦】に擬えられてて、日本のパスカル研究者(前田陽一、田辺保など)がこぞって【考える葦】の典拠としてるのはイザヤの預言に出てくる【傷ついた葦】である

イザヤの預言(註1)によれば「救世主が現れる」とのコトだったが、イエスはこの預言をそっくりそのまま暗誦して「自分がその救世主である」とのたまうので、【傷ついた葦】を含むほぼ同じ台詞が『旧約聖書』にも『新約聖書』にも出てきてる(「バプテスマのヨハネの質問とイエスの証言」のルカ7、マタイ11を参照)
どちらも救世主目線で見た場合に「人間はまるで【傷ついた葦】のようだ」としてて、この【傷ついた葦】を“折ることなく”とある

救世主は傷ついた人間を折るコトなく・・・???よほど残忍な人間でもない限り既に傷ついてる人に対して追い討ちを掛けないだろうし、むしろ傷を癒すとか支えになるとかなんとか救いの手を差し伸べようとするのが、救世主でもないフツーの人間のやるコトだと思うのだがね
しかし救世主は【傷ついた葦】を折るコトもしなければ傷を癒すコトも支えになるコトもしなくて放置プレイなのだ

これは情が深い人間にとっては納得し難いが科学的な思考をしてれば理解はできる
神が創造主として在ると仮定すれば科学の原理(自然の摂理)も司ってるはずで自らそれに逆らって奇跡を起こしてはならないのだ!世界の秩序を保つために神は人間を救わないのが正しい!!だから神の代理で現れた救世主も【傷ついた葦】は折らずにそのままにしておくのが非情だが正しいのだ

自分はそうして客観的に理解したが、パスカルはもっと受身でかつ能動的だったに違いない(パスカルについては矛盾した文章をよく書いてしまうな)パスカルなる人間の1番の特徴は生まれつき極端に身体が弱かったコトにあり、姉ジルベルトの証言によれば「18歳の時以来、1日も苦痛なしに過ごした日はなかった」そうで、他の子が元気に飛び跳ねてる間中、パスカルは苦痛に喘いでたのだ

若者たちは仲間同士で陽気に楽しみ、また仕事に明け暮れ、恋に悩むが、パスカルは苦痛と闘いながら孤独に満ちた世界について深く考えてたと思われ・・・自分が想像するパスカルはいつも暗い寝床で苦しい息をしながら眠るコトもできずに思索に耽る姿なのだが、パスカルが幾何学者となったのは病身ゆえとも言える(まあ実際に他に選択の余地がなかっただろう、まず肉体労働が困難だったのだから)

そうしてパスカルは神に助けを求めて祈らざるを得なかっただろうが、祈りは一向に届かないか、届いてたとしても神は無慈悲なのだ
そんなパスカルが近代科学を理解しつつ無慈悲な神に対して信仰を持ち続けられたのは、虚弱体質と相俟った精神力の強さなのは言うまでもない
パスカルこそがまさしく【傷ついた葦】で、今にも折れそう(死にそう)に弱ってたのだよ!それでも奇跡も待たなければ神を恨むコトもないのだよ!!【考える葦】だったから・・・

苦痛を乗り越えるには強い意志が必要で、強い意志を齎すのは道理に適った思索なのだ
パスカルはそうして【考える葦】であると自覚する時、自身の思考の中の宇宙に呑み込まれそうになってたのだが、自分もパスカルとは逆になるが脳内の宇宙を嘔吐しそうになってたので、この世界観の中の宇宙というモノを捉えようとした時に起こるの消化不良(?)に陥ってる仲間がいたのだと、妙にほっとしたのだった

葦が生物の中でどれほど弱いか?!比して人間が宇宙に対してどれほどちっぽけな存在か!だけど考えるコトができるから偉い!!てな解説をよく目にしてきたが、そんな薄っぺらな内容ではなくってよ

註1:ユダヤ人の中には預言者(prophet)とされる人物が度々出現するのだが、これは未来を予言する予言者ではなく言を預かる者で預言者で、もちろん言は神(yahweh)の言であるのは言うまでもないがこの預言者としてヨハネは認められてたので、ヨハネに洗礼を施してもらおうとする人たちが後を絶たなかったのだった
イエスもヨルダン川にてヨハネの洗礼を受けた1人だが、よって使徒ヨハネと区別するためもありバプテスマ(洗礼者)のヨハネと呼ばれるのである

『キリストの洗礼』ヴェロッキオ工房作

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