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父のこと

7月10日は父の一周忌でした。
昨年、父は急に具合が悪くなって施設から系列の病院に転院、そこでは2泊3日お世話になっただけで帰らぬ人となりました。
コロナ禍で家族は立ち会うことが出来ず1人で逝かせてしまったことが悔やまれます。

施設では昨年の春から面会禁止になっていて、父の顔を3ヶ月以上見ていないままの別れでした。
施設の父と面会できなくなっても、2日に一度はおやつのプリンやヤクルト、ヨーグルトなどを運びました。父は喜んで食べていると聞いてホッとしていました。いつかは別れが来ると分かっていても、今日明日ではないと思っていたのです。享年90歳でした。

私は夫も兄弟姉妹がいなくて結婚したので、いずれ4人の親の介護が必要になると覚悟はしていました。結婚した当初から私達と夫の両親とは同じ敷地内に住んでいました。県外の私の両親は母親が早くに弱って父と2人で暮らすことが難しくなり、私のところに引き取りました。11年前のことです。
夫の父親が最初に去り、私の母親、夫の母親そして去年私の父がこの世を去りました。この間10年が経っていました。

私は、子供時代はわがままでとんがっていて扱いにくかったと思います。早くから親元を離れたかった。親は勉強勉強と言うタイプだったのを幸いとし、私は勉強するからと高校は田舎の実家を離れ県庁所在地にある高校に入りました。寮生活です。大学は親は地元に行くものと思っていたようですが、親を騙してさらに親元から遠く東京の大学に入りました。当時は一人娘は養子を迎え先祖代々の家屋敷を引き継ぐものという時代ですが、私の最大の裏切りは、大学を卒業したら同窓の男の元にさっさと行ってしまった事ですね。
その後、私も人の親となり、若い頃の親に対する悪行を反省しました。本当に好きにさせてもらいましたから。

そして数十年が過ぎ、介護の時代が始まりました。私も夫も介護は誠実に勤めました。
私が4人の親を相手に四苦八苦しているのをみて、夫は会社の定年を迎えた時に雇用延長する事なく再就職先を探す事なく、介護を担ってくれました。私の親を引き取る時も嫌な顔しないで、最初からわかっていた事だろうと快諾してくれた事、感謝しています。

私は親元を15歳で離れました。また最後に私の元で一緒に11年暮らした私の親。子供時代の15年は父とどういう会話をしたか思い出もあまり有りません。ですが、母が先に逝き父と過ごした最後の時間は私も余裕があり丁寧に向き合って暮らせたと思います。少しは親不幸の埋め合わせができました。一緒にスポーツ番組を見たり晩酌を付き合ったりしました。寡黙な父ですが、言葉の返しがちょっと面白く意外にユーモアのセンスがある人だったんだと可笑しくもありました。
父は足が萎えて自分で身動き出来なくなりました。介護するのに2人の手がいるようになり、残念ですが施設にお願いしました。
父が死に一年が経っても、施設に行くのが早くなかったか、もう少しできることがあったのではないか、そんな思いが消えません。たまには涙も流れます。

人が死ぬのは宿命、大富豪も貧乏人も時間の元では平等なところが救いです。いずれ私も亡き親の元に行きます。最近は人類はこうやって命を繋いできたと実感しています。私70歳が近いのですよ。それでも、「今日が1番若い」と思い、頑張らなければなりません。(^^)

#父 #父の一周忌#コロナ禍での別れ#振り返り

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