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【ネタバレ感想】庵野と俺たち私たち(時々宮崎駿と安野モヨコ)~シン・エヴァンゲリオン劇場版を作家性から読み解く~

※ネタバレ注意※

【シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレ前提の感想と考察です。ネタバレを避けている方はご注意下さい。】

【また本考察と感想はあくまで私個人の考えです。考察や解釈に違いがある場合が多々あります。不正解ではなく、こんな考察もあるんだ、程度に気楽に読んで頂けると幸いです】

20年以上エヴァオタを続けた女が号泣した話

1998年。14歳でエヴァに出会った。旧劇場版Air/まごころを、君に(以下、旧劇)が一年経とうとしても、まだまだエヴァの熱気は続いていた。

放送終了後からドンドン話題になったエヴァはオタク達に広く広まった。結果、地方民オタクだった私もエヴァの存在を知った。しかし当時の私はこう思った。

「せっかくだから14歳になったら見よう」

この判断が良かったのか悪かったのかは分からないが、14歳になった私はTV版と旧劇を一気に視聴する事になる。結果はお察しである。

あれから24年が経った。

新劇場が公開されてから「序」「破」「Q」と公開初日の朝一番に観に行った。
誰よりも早く見たかった。そしてその熱意がある人達と同じ時間を共有したかった。
当然、今回のシン・エヴァも公開初日、朝一番に観に行く事にした。視聴直前の私のツイートがこちらである。


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お前は戦地にでも行くのか。

いや、しかし、実際そうなのである。私にとって、これは戦いだったのだ。
14歳で出会い、間違いなく私の人格形成に影響を与えたアニメだ。
10代に出会った作品は、その人の人生に深く影響を与えるものだ。
今の私と庵野、10代の私と30代の庵野、そして10代の私と今の私との戦いなのだ。もはや私の気持ちはベタな少年漫画の主人公状態であった。

そして、私は号泣した。

隣に座っている人の迷惑になるから声を殺して泣いた。
耳を澄ますと、私以外の啜り泣く声がいくつも聞こえた。
隣のお兄さんはスクリーンに向かって親指を立てていた。
エヴァンゲリオンは、完結したのだ。

しかし一体何故これほどに泣く人が現れたのか。
その理由を「作品」ではなく「作家性」等の観点から説明したいと思う。

改めて伝えるが、これは私個人の感想である。
全ての人には当てはまらない。
しかし「何故他人は、或いは自分は、号泣するまでに至ったったのだろう」と疑問の方の参考になれば幸いだ。

号泣の理由。それは旧劇まで遡らなければならない。

90年代、旧劇を通した庵野とオタクにあったこと

90年代、TV版終了後、エヴァンゲリオンは空前のブームを迎えた。
知らない人は鬼滅の刃のブーム感を想像して頂けると良いかと思う。あそこまで一般人に認知はされていなかっただろうが、当時のニュース番組がこぞって特集を組んだりする程度にはブームになっていた。

さて、ブームになるという事は視聴する人間も多くなるという事である。
当然入れ込む者も必然的に増える。
97年と言えば、ADSLも無い時代だ。(余談だがADSLの普及は2001年である)2ちゃんねるの創設ですら99年なのだ。
当然、エヴァの感想や考察論は狭い身内の中で行われた。
インターネットではパソコン通信というものがあったが、それでも極々一部の人しか使用していなかった。
そして99年……ノストラダムスの大予言、かつ世紀末が迫っていた。
あの世の中の漠然とした不安感、今のコロナ禍と近しいものがあったと思う。

濃いエヴァオタクが誕生するのは必然だったかもしれない。

妙に明朝体が流行った。文章をL型に配置したりするのが流行った。
私も御多分に漏れず、あんたバカぁ?と言ったり、ボソボソ呟いてみたり、大好きな「使途、侵入」を見すぎて台詞を諳んじたりしていた。

さて、先述したパソコン通信。
皆インターネット初心者である。
エヴァオタも庵野も皆インターネット初心者である。
煽り耐性など皆無である。
恐らく放映中にも過激な感想が送られてきたり読んだりしていたのだろう。

そうなると庵野はどうなるか。

Wikipediaによると、96~97年頃『スキゾ・エヴァンゲリオン』、『パラノ・エヴァンゲリオン』では「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と発言していたり、TV放映後から劇場版公開頃はインターネット上のチャットや電子掲示板上での作品論争を「便所の落書き」と言い放っていたらしい。

今振り返ると「そりゃあ皆ネット初心者だから煽り耐性0だし発信側も受信側も過剰反応しちゃうよねぇ」に尽きるのであるが、97年の人は渦中にいる為気付かない。
阿鼻叫喚の地獄絵図であっただろう。
ピンと来ない人は参加者全員がクソリプを送る人間と想像して頂くと分かりやすいかと思う。

とにかく一部のオタクも庵野も荒れていた。
更にオタクはオタクに振り回され、そんな事を知らぬオタクは呑気にファンロードに絵を投稿したりしていた。
エヴァという作品が肥大化した結果、全ての人間が振り回されていた。
しかも庵野も我々もそれに気がつかない。

迎えた旧劇場版。

Air/まごころを、君に

The End of Evangelion(エヴァンゲリオンの終わり)

春公開の劇場版シト新生(通称春エヴァ)でアスカが復活し「エヴァシリーズ…!?完成していたの?」と呟いた続きである。
「おう庵野、お前こそエヴァ完結させたんか」「まごころを、君にって俺らの事も指しているんか?」「また元気なアスカが見られる!」「カヲル君は出るの!?」とそれぞれ期待を胸に見に行った。

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そこにあったたのは、庵野からの痛烈なオタク批判と「現実へ帰れ」という拒絶だった。

当然はエヴァオタはこう反応した。
「てめえもオタクだろ!」「オタクきめぇ」「これが完結とかふざけんな!」「カヲル君出てきて良かった」「アスカがぁ…」「てめぇが気持ち悪いんだよ!」「いやコレは云々(早口考察)」「オタクがオタク批判かよ」「一部のオタクのせいで庵野が壊れた」

つまり様々だった。一番多いのは「よく分からなかった」だが。
それでも画面の迫力に圧倒され劇場に何度も足を運ぶものも少なくは無かった。
(それにしても今思えば凄いポスターとキャッチコピーだ。同時期に上映されていた、もののけ姫の「生きろ」と対比も話題になった)

まあ庵野も

旧劇長文

こんなのや

庵野、殺す!

こんなのを送られ

スプレー

こんな事されて、怒らない訳がない。
当時、庵野は自分自身を否定されたと感じたのではないだろうか。
その結果、

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こんな手紙や

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こんな感想や

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こんな風に絶賛されても
「うるせええええ!!これはただの絵だよ!アニメだよ!!何感化されてんだよ!!現実見ろよ!!もう嫌だ!!皆嫌いだ!俺も俺が嫌いだ!うわあああ!!」
と拒絶してしまっていたのだろう。
(余談であるが、これは旧劇で綾波が「夢の終わりよ」のセリフで超高速で流れたものである。ここをコマ送り&一時停止してオタク批判するオタクも増えた)

今思えば、庵野も我々も若かったのである。

こうしてエヴァという作品は完結した。
めでたしめでたし……で完結しなかった上に「これが完結なのか?どうなんだ?」「俺のエヴァは俺が完結させる!」という思いに駆られ、エヴァの考察や取り巻くモノはエヴァに囚われ、終わりを迎える事は無かった。

月日は流れ、新劇場版が発表され、「序」「破」「Q」はヒットし、2015年はとうの昔に過ぎた。
私も成人し、社会人になり、結婚したりと目まぐるしい日々を過ごした。

そして迎えたシン・エヴァンゲリオン劇場版。

庵野は60歳になっていた。
私は36歳……奇しくも庵野がTV版エヴァを監督した年齢になっていた。

これは庵野の自己肯定の物語

武士のような覚悟で見た私は衝撃を受けた。
「TV版最終回とそっくりな場面」や「旧劇をポジティブにやり直したような場面」の連続であったからだ。

アスカはシンジに「好きだった」と伝えられた。
(式波か惣流かは特に問題ではない)

ミサトは腹を撃たれ、前向きな気持ちでシンジを送り出し、自分自身は母親として一つの事を残した。

レイは他人から影響を受け、自分自身の力で感情を得た。

リツコはゲンドウに銃を何発も打ち込み、次世代の者と一緒に生きていった。

加地さんはミサトとの間に子供をつくった。きっと8年前に言えなかった言葉を言えた事だろう。

マコトと青葉はお互いを称賛し、マヤは男たちにため息をつきつつも認めていた。

ゲンドウは直接シンジに「すまなかった」と言い、抱きしめた。

シンジとレイ(ポカ波)の二人の会話の後ろでは旧劇でシンジとレイが精神世界で二人で会話したシーン(甘き死よ、来たれの最初ら辺)が使われていた。

ユイとシンジのシーンは旧劇のユイとシンジのBGMが使われていた。
BGMから読み解く考察はこちらが素晴らしいので是非ご一読頂きたい。
(と言ってもバズっていらっしゃるので既に読んでいる方も多いと思うが)

冬月は…なんだろうか。
Qでシンジに「お前の父ちゃんも色々あるから察したり受け入れてくれ」と直接言えた事だろうか。
そもそもシン・エヴァはQとの二本立て…急+?だったのだから、セットで考察しても良いかと思う。

もうとにかく、キャラクターが前を向いている。
旧劇とおなじような状況にあっても、決して絶望したり諦めたりしないのだ。

皆が爆笑したと言っているミサトの部屋での初号機戦闘シーンですら感動した。
あの部屋は旧劇ではシンジがサードインパクトを決定した悪夢の部屋なのだ。(旧劇を踏まえたシン・エヴァ感想と考察は気が向いたら書きます)
そもそもアレはシンジとゲンドウの記憶と経験の中であり、現実世界ではないのだからツッコむのも野暮だというものだろう。

そしてあの悪夢のような浜辺でのアスカとシンジ。
「私寝てた?」「アスカの事、好きだったんだと思う」と、コレである。
アスカ派かつLAS(ラブアスカシンジの略。所謂シンアス派の事。2chエヴァ板用語)だった私は本当に号泣した。
あれだけは誰が何と言おうと「私の中では」旧劇のアスカだ。
恋人にはなれなかったが、やっとシンジに好きと言われ、それを普通に受け止められた。
これだけで、もう、「私の中の」惣流アスカは救済された。
そして私のアスカに対する長年の想いも。
(ここら辺は機会があるなら、式波アスカと惣流アスカ(惣流は救われたのか)をテーマに考察を書きたい)
余談だが「アスカ!スーツ敗れてムチムチやん(/////)」と思って敗れた部分をずっと注目していたが(気持ち悪い)大人になったアスカらしい。
であれば、余計に感慨深い。

ケンスケが言っていた「親子で話し合えば済む話なんだよ」は正にエヴァオタの総意見ではなかったろうか。
(ケンスケを我々視聴者のメタファーと考えるとそれはそれで面白そうだ)
「マジそれ。TV版からずっと思っていた」というものをようやく形にしてくれた。やっと話し合ってくれた。

最後は延々と電車の中で悩んでいたシンジが駅のホームからマリと一緒に出て、我々の住むような外=現実という光に向かって走り出す。

そしてシン・エヴァにはストレートな一般人でも分かるオタクネタ…「ヤマト作戦」「コード999」ピアノ線で操演されるエヴァ、SF好きなら分かる、さよならジュピターの曲など、オタク色が詰め込まれていた。

つまり私はこう思ったのだ。

あの庵野が。

「これはただのアニメだ!オタクなんて嫌いだ!だからオタクである自分も嫌いだ!現実へ帰れ!」
と全てを拒絶していた庵野が。

「俺はオタクだよ!コレが好きだよ!オタクって楽しいよね!エヴァはこれで終わっちゃうけれど、これをチカラにして、一緒に現実を生きていこう。」
と言っている。

そう、旧劇で壮大な私信をした庵野が、またシン・エヴァで壮大な私信をしたのだ。
クリエーターとはそういうものだ。それで良いと私は思っている。
結婚を機会に、少しずつ庵野が前向きになっていったのは知っていた。
インタビューや安野モヨコ作の監督不行届でもそれが垣間見れた。

でも、こうやって、エヴァを通じてメッセージを送ってくれた。

「ちゃんと終わらせたから。俺は俺を認める。キャラクター達にも、作品の中で前向きに決着をつけさせた。25年前の決着をつけたよ。」と。

そしてそれを受け止めるだけの経験を、私もしてきた。

「庵野、良かった。私ももう現実に帰っているよ。」と。
「お互い歳をとったね。これからも頑張って。私も頑張るよ。」と。

それは「同窓会」であり「仲直り」であり「卒業式」でありそして「90年代の我々の心の供養」でもあった。

ついに、ようやく、全てが終わったのだ。

スクリーンには宇多田ヒカルのOne Last Kissが流れる。
それが何だかエヴァに捕らわれた私たちへの鎮魂歌にも聞こえた。
Beautiful worldはシンジではなくゲンドウの歌だったのか、と気付き(というか勝手に納得し)また涙が頬を伝った。

泣かずにいられようか。
25年だ。25年かかってようやくココに辿り着いたのだ。

しかし何故、このような自己肯定の塊のような映画が作られたのか。
私が思うに、それは庵野秀明が「師」と仰ぐ、宮崎駿と、庵野秀明の嫁・安野モヨコの存在が大きいと考えている。

確実に影響を与えた宮崎駿の「風立ちぬ」

宮崎駿と庵野秀明の関係は皆知っているだろうから割愛する。
(旧劇終了後の宮崎駿と庵野のインタビュー)

「風立ちぬ」

これも宮崎駿の自己肯定の物語だ。
戦闘機が大好きだけれど戦争は嫌い。だから戦闘機に惹かれる自分が嫌い。そこまで考えないオタクも嫌い。でも戦闘機カッコイイ。
と80代まで悩んでいた宮崎駿がようやく「俺は戦闘機が大好きだ」と胸を張って言えた作品だ。(そう、宮崎駿は庵野より拗れた男だ)
そんな作品に庵野は主人公の声優として参加した。
加えて作品内でこう言われたのだ「あとは若い者に託す」と。

それに対して、庵野も自己肯定を持って応えたのではないだろうか。
シン・エヴァは風立ちぬに対するアンサー映画でもあったと思う。

余談だが、宮崎駿と風立ちぬについては、ドキュメンタリー映画「夢と狂気の王国」が素晴らしいので気になる方は見て欲しい。
(特にラストカットが駿のアニメーターとしての「業」を表現していて鳥肌たった)


安野モヨコと結婚した庵野が辿り着いた結末

エヴァの呪縛からシンジを解き、現実連れ出したのは何故マリだったのか。
終演直後はよく分からなかったが、しばらくして気がついた。
そうだった。マリは安野モヨコだったと。
(余談だがエヴァ板で「冬月がマリに言っていた言葉って何だった?よく聞き取れなかった」と公開初日に質問したところ、速攻で「イスカリオテのマリア」とレスが多数来たのは流石だと思った)

安野モヨコについて、庵野は安野モヨコ・著「監督不行届」にて以下のように語っている。

「嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。(中略)現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(中略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。」

ちなみにこれを読んだエヴァオタクの感想がこれである。(正にその通りである)

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エヴァ終了後、精神を病んだ庵野を救ってくれたのは奥さんであるモヨコであった。
庵野は他人に傷つけられたが、他人に救われた。
「仕事をしていると不幸な自分を忘れられる」
と言っていた彼とは思えないような笑顔を見る事が出来るようになった。
彼は幸せになったのだ。

時が経ち、自分の分身であったエヴァという作品やキャラクター達を、彼は自分の子供のように感じてきた事だろう。
その結果、このAmazonレビューのように「幸せにしてあげたい」と思うのは当然なのかもしれない。

自分がそうだったように、シンジ達も他人からのチカラを素直に受け取り、それを自分のチカラに変えるようになって欲しい。
しかし「エヴァのキャラクターは全て庵野の分身」である。
自分で本当の他人は作れない。他人のメタファーであったアスカもやはり自分の分身に過ぎない。
マリは庵野が鶴巻和哉監督にオーダーし、自分の手を離れたキャラクターである。
つまり自分ではない、正真正銘、赤の他人なのである。(余談だが破の時点で真希波はデウスエクスマキナのダブルミーニングと考察した人々凄い)

もはやマリ=モヨコである事は私の中で明白であった。
シンジは庵野の分身であった。
そしてマリは他人(モヨコ)のメタファーである。
そしてシンジは我々でもあり、マリは我々以外の他人のメタファーだとも考えられる。

そう考えると、最後にマリがシンジを外に連れ出すのも納得出来る。
というかそれ以外に考えられない。
アスカ派の自分としては寂しい気もするが、過去にこだわるよりも、とても前向きな結末だと感じた。(シュガシュガルーンやオチビサンが全面に出ていたのも庵野の感謝と愛を感じた)

さようならは、また会うためのおまじない。

さて、私はエヴァンゲリオンの卒業式に参加した。
庵野と一緒に現実を生きようと思った。
しかし思う。

「現実へ帰れ」
「エヴァの事はもう忘れよう」

果たしてそれが彼からのメッセージだったのか。
私個人としとしては、少し違う捉え方をしている。
「現実へ帰れ」ではなく「一緒に現実へ帰ろう」という
庵野から、オタク同志からの「愛情」を感じたからだ。
(庵野からの愛情って書いてて自分でも噴き出してしまった)

卒業式に参加した後、人は学生時代を一切忘れるだろうか。
そうでは無い筈だ。
「あの頃こうだったな」と思い出話に花を咲かせる事もあるだろう。
卒業アルバムを見ながら、若かりし自分を思い出して苦笑いするだろう。
そしてそれは、決して悪い行為ではない。
「今の自分と環境」を顧み「これからの自分」に思いを馳せる事が出来る。

エヴァはようやく「思い出」になったのだ。

劇中、ヒカリは「さようならは、また会うためのおまじない」と言っていた。

さよなら、全てのエヴァンゲリオン。

は、そんなにネガティブなメッセージでは無いと思う。

シン・エヴァ

エヴァは繰り返しの物語。
人は悩み、傷つき、他人に恐怖を覚える事もある。
堂々巡りをして、やっと辿り着くものだってある。
そして、その堂々巡り自体も、振り返ると己に糧になっているのだ。
私にとって「エヴァ」がそうだったように、また誰かの中にも「自分だけのエヴァ」があるだろう。そしてそれは「エヴァ」で無くても良いのだ。
「誰か」の中の「何か」が、人を強くしていく。それを次世代に渡していく、伝えていく、というのを、人は繰り返していくのだ。(この繰り返し考察は私の中でまた変わるのでしょうが……)

今は卒業式を控えた者、卒業式を終えた者が卒業式の感想を皆で言い合っている状態だ。卒業式ではなく、葬式だった人だっているかもしれない。
でも、全て含めて、これで最後なのだ。少なくとも、エヴァは完結したのだ。それを今はしっかりと味わっておきたい。
感想や考察は答え合わせではない。
「他人」の気持ちを聞き、それを受け止め会話するものだ。
だから、ここまでの感想と考察はあなたの心に残らなくて良いものだ。

私はエヴァンゲリオンが「好き」と言って普通に愛でる事が出来るようになったのだろうか。

それはまだ分からない。
現実は、これからも続いていくのだから。

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ここまで読んでくださったアナタに感謝いたします。
ありがとうございました。

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メモ→今後時間があったら書きたいもの「式波アスカと惣流アスカ(惣流は救われたのか)」「旧劇(TV版最終回)のリフレイン詳細(各キャラクターの救済)」「健在だったライブ感(東日本大震災とコロナ禍)」「破からQまでの時系列整理」「イスカリオテのマリアとは」


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