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アートマネジメントの学び方〜ネットTAM講座マラソン(6月)

こんにちは。アートマネージャーのてらだです。

アートマネジメントの基礎知識を学ぶべく、5月より走り始めたネットTAM購読マラソン、予定通り行けば来月ゴールできるはず!

先月までは、基礎的な用語を解説する「用語集」や、アートマネジメントのキーワードを3~5回程度で紹介する「ネットTAM講座」を読んでいましたが、今月はいよいよ「リレーコラム」に突入しました。

リレーコラムとは、アートマネージャーやアーティストなど、アートの現場の真っ只中にいる執筆者たちが、順番にバトンを回していくという企画です。読んでいくと、アートを取り巻く仕事が、まさに人との繋がりによって成り立っているんだなあということがひしひしと感じられます。一人ひとりの視点から、「アートマネジメントとは何か」が考えられ、言語化されてきた歴史の上に、自分は立っている・・・

前置きが長くなりましたが、今回も、特に刺さった10本を紹介します!

アートプロジェクトの広報入門 [第5回] 大事な動詞は、"askとthank!" (白土 謙二)

はじめましての自己紹介から広報まで、「伝えるコツ」という視点でアートプロジェクトの広報の考え方がわかりやすく解説されているシリーズ。

意外に忘れがちなのは、先述した、協力をしてくださらなかった方々への報告と感謝です。断ったとしても、その理由や未熟なポイントを教えてくださった方々には「今回は協力いただけなかったけれども」ここまでは自分たちでできましたという報告を、教えていただいたことへの感謝と共に送るべきです。そして、その活動やプロジェクトに興味や関心を示されなかった方々にも、報告はきちんとすべきではないでしょうか。将来、どのようなご縁が生まれるかもしれませんし。先方がたまたま興味を示されなかったテーマでも、それが数多くの参加者を集めたという事実を目の当たりにすれば、そのテーマに対する興味や関心が高まる可能性も出てくるはずです。

メモ:アートプロジェクトでは、新しい土地に入って行ったり、初めましての人にお願いをしたりという場面が多く、情報の伝え方で印象が全て決まってしまうことがある。ネガティブなフィードバックを受けた場合も、相手へのリスペクトを持って向き合うことで、関係性が変化することもある。これは覚えておこうと思った。


2030年の美術館 [第3回] 成長しない美術館山口 洋三

美術領域のアートマネージャーたちが、2030年の美術館の役割を考えるシリーズ。同じ「アートマネージャー」でも、パフォーミングアート以外のマネージャーたちの話をあまり聞いたことがなかったな、と気づく。

美術館を維持することは、地球を汚染することだと、なぜ気がつかない人がいるんだろう、という疑問に、正面から答えることのできる学芸員は存在するだろうか。このまま現状維持か、過去に戻ってしまうことがあり得ると予感してしまうのが現代の常識というものかもしれない。予算ひっ迫のせいで、収集も企画も行わない(行えない)美術館がだんだん増えてきてしまったが、ある意味そういった「成長しない美術館」は、意外にも時代の先陣を切っているのかもしれない、とは皮肉に過ぎるか。

メモ:環境問題について、パフォーミングアートはどれだけ考えているか? 作品を作り、チラシを刷り、公演を行う中で、自分たちが地球環境を少しづつ壊しているということに、自覚的になれているか? もちろんその影響は微々たるものかもしれないけれど、塵も積もれば山となる、ということ。「サステナブルな」パフォーミング・アートとは何か? 考えていきたいテーマの一つ。

楽器を持たずシンフォニーを奏でる、オーケストラ事務局の人々 [第3回] 街と響きあうオーケストラ(桐原 美砂)

オーケストラのアートマネージャーたちによるシリーズ。ステージ・マネージャー、ライブラリアン、アウトリーチ担当など、様々な立場からオーケストラの仕事が紹介され、その輪郭が見えてくる。

プログラムや構成もさることながら、何よりも演奏する人間の圧倒的な熱量が必要になる。彼らのパワー全開を引き出すために、何歳くらいのどういう人たちが何人いるのか、1日の中でどういう時間なのか、心配なことはあるのか、期待されていることは何か、観客の座る位置、角度、譜面台の高さ、日当たり、リハーサルはできるか、コンサートの始まりにお客さんになんと声をかけるかも、マネージャーの仕事だったりする。

メモ:もはや「アートマネージャー」という職種名は意味をもたないんじゃないかという気がしてくるほど、「アートマネジメント」の仕事の幅は広いのだということを再認識。オーケストラ事務局の仕事や役割については知らないことが多かったけど、「パフォーマーやアーティストたちが最大限の力を発揮できるような環境を整えるために細部に注意を払う」という点は、どの領域のアートマネージャーにも共通する部分なのでは。「第2回 オケ裏生活30年」(山元 浩)に貼られていたオーケストラのステージの幕が開くまでのタイムラプス動画が面白い。


アートマネジメントを超えてドラマトゥルクへの転換(市村 作知雄)

トヨタ・アートマネジメント講座ディレクターでもあった筆者が、ヨーロッパの状況と比較しながら、日本のアートマネージャーの専門性へ問題提起を行う。

今、問題なのは制作型のドラマトゥルクである。劇場やフェスティバルの方針を考え、プログラミングし、プログラムの意義を常に考え、欠陥を修正する、あるいは地域との連携をはかり、その地域の芸術教育を担い、アーティストを育て、ワークショップを計画し、芸術機関の運営の実践を行うのもドラマトゥルクの仕事である。もちろん最終決定をするのはディレクターや「芸術監督」ではあるが、ディレクターだけですべてを決めることは不可能である。(中略)ディレクター制というのは、一人に決定権が集中する独裁制のようにとらえられるが、実際はそのもとにたくさんのブレーンを抱えている。ディレクター制とドラマトゥルクは実は一対である。むしろディレクターよりドラマトゥルクの方がアートの専門家である。

メモ:このコラムが書かれているのは2013年だが、2020年の今も、ここで批判されている状況から、アートマネージャーの職能に対する認識は大きく変わっていないように思える。「ドラマトゥルクの半分しか紹介されてはいない」とあるが、そもそも全く異なる社会や制度をもった外国の職業を、そのまま自国に導入するということには限界があるのだろうとも思う。「新しい職業」は、与えられるものではなく、自分の専門性を人任せにせずに考え、発信する人たちが生んでいくもののような気がする。


最近の「評価」流行りには、少々うんざりだけど…(吉本 光宏)

アートの「評価」について、特に個人が作品「評価する」ことの重要性について。

文化や芸術は、戦後、私たち日本人が一貫して追い求めてきた経済性や効率性といったモノサシでは評価できないから、話はやっかいなのだ。けれども裏を返せば、経済性や効率性では判断できないからこそ、芸術には現代的な価値がある、ということも忘れてはならないと思う。画一的な基準ではなく、皆が、自分の判断で評価できる、好き嫌いを言える、そんな日本人の苦手なことが、アートの世界では許される。だから多様な価値観も個性も共存できるのである。

メモ:自分の表現が全て他者からの評価基準になってしまう社会では、自分がその作品をどう思うかという「評価」すら、他者からの自分への「評価」の対象になってしまう。他者からの評価を恐れず自分の価値判断を練習できる場を、アートで実現できればいいな、とは思う。しかし、アートは孤島のユートピアではない。「アートの世界」と「そのほかの世界」の間に分厚い壁があるなんてことはなく、常にその二つは地続き。


文化装置分別のススメ(甲斐 賢治)

アートNPOの代表を務める筆者による、アートの役割についての一考察。

なにが、アートなのでしょう?
 きっと、十人十色。いろんな想いや意見に分かれることでしょう。おそらく人それぞれに、イメージし、口にすることが相反していたりもすることでしょう。つまりは、見方が揃わず、決まった正解のない世界がここにあります。僕はこういった状況をつくってくれる場のことを勝手に「異化装置」と呼んでいます。その逆として、ごくごく一般的な「クラブ」などで見られる風景では、同じ系統のファッションに身を包んだ人々が、力強いビートにみんなで身を任せ、心地よい時をいっしょに過ごします。また、とある「劇場」では、いわゆる水戸黄門のようなドラマによって、観客の気持ちをみんなまとめて、きちんと同じ場所に運んでくれることもあります。そう言った場を僕は勝手に「同化装置」と呼んでいます。

メモ:2019年にこまばアゴラ劇場で観た「ファーミ・ファジール&山下残
GE14 マレーシア選挙」を思い出す。スクリーンには、マレーシアの選挙期間中の映像が映し出される。祭りとしか言いようのない雰囲気の中で、それぞれの党の支持者たちが、それぞれの候補者たちの方を向いて、歓声を上げていた。大勢の人たちが同じ方向を向いて、同じ言葉を叫んでいた。映像が終わり、ファーミがステージに立ち演説を始めると、客席からファーミを見つめる自分たち観客と、先ほどのマレーシアの支持者たちの姿が重なった。劇場は果たして異化装置なのか、それとも同化装置なのだろうか? もしくは、どちらにでもなり得るのか?


素潜りノスゝメ(林 僚児)

沖縄でアートプロジェクトを行うアーティストが、彼を取り巻く風景と人々を描く。

百姓は生きていくために、環境からさまざまな術を編み出してきた。それが生活のためであったり、家族のためでも、世のためであれ、社会のためであれ、自分のためになんでもやる。季節ごとに生きる術を編み出し、天候を読み、タイミングを知る。地を耕し、家畜を養い、蚕を飼い、きのこや虫を食う。微生物とどのような関係を取り持つことができるか考えるのもまた、である。

メモ:農業とアートマネジメントって、似てるのかもしれない。予測できないけど、時々信じられないような感動をくれる相手と日々地道に向き合う。


平成の志士たち(佐東 範一)

ダンスのアウトリーチに携わる筆者がアウトリーチの意義を探る。

こういう仕事 - 文化とか芸術とかアートマネジメントとか - を長年やっていると、必死にやっているのだけど、本当に意味があるのか、意義があるのかとふとした時に思ってしまうわけで、いくらでもその意味や意義を心の底からの確信として語ることはできるのだけど、ふと思う時があるのですね。

メモ:こういう風に思うこともあっていいんだ、とちょっとほっとする。


つくることはじめ(宍戸 遊美)

アートプロジェクトでの日々の気づきを発端に、筆者が自身の仕事とアイデンティティについて考えるコラム。

自分たちの活動を大人に説明するときは「アーティストです」とわかりやすい共通言語を探した。その言葉の向こうではきっと「あぁ絵を描く人ね」とか「彫刻創る人ね」とか「県展出してるあの知り合いと一緒かな」と思われていたに違いない。
 生まれて10年弱の子ども達にとって「アーティスト」という言葉はまだ芽生えていないのが幸いなのか。彼らの質問はいつも「何しているの?」から始まる。そして私の答えはいつも「アートプロジェクトをしているんだよ」から始まる。

メモ:自分の仕事や専門性について話すとき、ついつい、聞き手がすぐに理解できそうな言葉を使ったり、範囲を限定して説明してしまうことがある。それに自覚的ならいいけれど、ずっとそうしていると、だんだんそれに自分が縛られてしまうこともあるよな。


世界は田舎の集合(菅沼 緑)

「田舎」とは何か、そして「田舎」におけるアートの役割についての考察。

揚子江の河口が東京だとすれば、そう、ここは泉の一滴がきらりと光る田舎なのだ。(中略)世界はあちこちの泉でもある田舎の集合体なのだから、実体としての社会は田舎の方が新鮮で生々しいのは当たり前の話だ。(中略)何が都会へ人を集めさせるのかといえば経済にほかならない。経済こそ最も公平な価値基準であり対価の報酬は想像力を刺激する触媒であるはずだったけれど、極度に進化した経済システムは本来の機能をはるかに超えてしまい、別の生き物として世界を動かしている。

メモ:「世界はあちこちの泉でもある田舎の集合体」にハッとする。過去の旅先を思い出してみても、都会はどこに行っても似通っていたのに対し、市街から離れた「田舎」エリアでの思い出は、今でも全て粒立って感じる。川の上流で飲む湧き水は、家で飲む水道水より美味しい。


ということで、今月はここまで。

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