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よって私は、文庫版「好き?好き?大好き?」を買うことを決めた。

この記事は私ロロねこが「のとは、」氏の以下の記事を読んで、思ったことを勝手に書き連ねる記事である。もし、これを読もうとする奇特な者がいれば、先に以下の記事を読んでほしい。

本文

文学をどう読むかについては諸説あって、特に「当時の情勢、作者の思惑、その文章が書かれた本当の意味を読み取るべきだ」とするのが『文献学的解釈』、「読むのは今なんだから、現代の諸情勢と照らし合わせて考えるべきだ」とするのが『アレゴリー的解釈』らしい。私の理解によれば、この表紙は『アレゴリー的解釈』に基づいていると言えると思う。

さて、ロベルト・ヤウスが提唱した概念に『期待の地平』というものがある。これは読者が本を読むときに持っているもので、「読者が前提として持っている知識や規範から生まれる、期待や憶測や先入観」のこと。
 「好き?好き?大好き?」のような詩集(?)においては、表紙が読者の『期待の地平』に与える影響は、小説や漫画の比ではないほど大きいと私は思う。詩は全てを語らないために、表紙がイメージを代替してしまうことがありうる。

ヤウスは、「作品が読者の『期待の地平』通りであれば、その作品は娯楽に近づく。逆に『期待の地平』を裏切るのであれば、その作品は読者を新しい地平に導く。この、新しい地平を見つけることを強いる作品こそ、古典的に傑作と呼ばれるものなのだ」というようなことを考えた。
 私は、のとは、さんの懸念の根本は、表紙によってメンヘラというカテゴライズに『期待の地平』が変質することで、後者の作品である「好き?好き?大好き?」を、あたかも前者であるかのように解釈する人が出るのではないか、ということなんじゃないかと理解した。

実際のところお前はどう思うのかといわれれば、ぶっちゃけ分からない。なぜなら、私がこの本を読んだことがないからだ。そもそも判断材料がない。

その上で、未読者の視点から考えるなら、レインの言葉、真意、思想が文献学的に間違った解釈をされることを、避けることはできないと思う。
 むしろ私は、ある程度はアレゴリー的に解釈すべきだと思う。

医学と精神病の戦争はレインの死後も続いている。
 レインの時代になかった薬、例えば「エビリファイ」はたくさんの苦悩持つ人を救っているし、認知行動療法によって新しい生き方に触れられた人もたくさんいる。
 そして同時に、助けを求めることも触れることもできず、風邪薬のODリストカット自殺未遂に、手を伸ばさざるを得ない人も大勢いる。

文献学的にかつてレインが書いた時の情勢がこうだったからと、今のメンヘラのイメージを合わせることを拒むのは、この「レインの死後の歴史」を否定しかねない。

『アレゴリー的解釈』は、どの解釈が正しいのか分からなくなるという点で劣っている。
 一方、『文献学的解釈』は、後から生まれた意味を否定する点で劣っている。

つまるところ、私たち読者は、『アレゴリー的解釈』と『文献学的解釈』の間に立つしかない。ちょうどいい塩梅の解釈を自分なりに見つけて読んでいくのが、私たちに取れる最善策なのだ。
 この「ちょうどいい塩梅」が人によって違う以上、『アレゴリー的解釈』寄りの人と『文献学的解釈』寄りの人で、解釈に違いが出てしまうのは、どうあがいても不可避である。

アレゴリー的に、ああ発狂したメンヘラの話なんだなぁとしか捉えなかった人は、『期待の地平』の通りに娯楽として解釈するかもしれない。
 文献学的に、昔はこんなことを書く精神病院の医者がいたんだなぁとしか捉えなかった人も、『期待の地平』の通りに娯楽として解釈するだろう。

結局詩集は、いい感じに読んでくれ! ということ以上にできることがないのである。

思うに、最大の問題は、レインの他の著作が手にとりにくすぎることではないだろうか。もし、この文庫版「好き?好き?大好き?」の横に、文庫版「結ぼれ」があれば、きっと一緒に手に取る人はグッと増えるだろう。
 しかし、現実には「結ぼれ」の文庫版など存在しない。重度のファンが3000円出してハードカバーを買うような、やべー本でしかないのだ。

となれば、やるべきことは一つである。

文庫版「好き?好き?大好き?」を買おう!!! 私は買います!!!!!
河出文庫に文庫版「結ぼれ」を出すべきだと思わせるのだ!!!!!!!!

以上。

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