千葉県の朝鮮人虐殺について
昨日の続きになりますが、1923年の関東大震災に乗じて当時の内務省が同年9月2日に(震災は1日午前11時過ぎ)に伝令に各地方長官宛の電文を持たせ,朝鮮人が不逞の目的を行なおうとして いるから厳密に取り締まれとの指令を全国に流した。(船橋送信所)
「また,東京の近県にも通牒を発し,各町村で住民を自警団として組織させ朝鮮人への 警戒に当たらせるように指令した。これについては,埼玉県庁を通じた通牒が明らかになっている が,この通牒では警戒にあたって「一朝有事」の際には「適当の方策」を取るように指示してい る。」と。
さて、千葉県においては専修大学の教授田中 正敬氏の論文によれば、「千葉県で最も多くの朝鮮人犠牲者が生まれたのは船橋であったが, ここでも九月四日に三八人とも五三人とも称される犠牲者が出た。」と記され、続いて「船橋の事件は北総鉄道(現在の東武野田線)の建設工事の朝鮮人労働者が集団で収容所方面に送ら れていった途中で自警団に襲われたものである。」とされ、船橋では東京近郊で地震による倒壊の難を逃れていた海軍の送信所から無線により朝鮮人の流言 が流され,また送信所長は近隣住民に武器を持たせて警戒態勢を敷いた。そのことが背景となって, 北総鉄道の建設工事に携わっていた朝鮮人労働者が犠牲となったことは前述したとおりである。 一方,千葉県の習志野には騎兵第十三~十六連隊が駐屯していた。騎兵連隊は震災後に東京や横 浜方面に出動し,東京下町の亀戸事件や大島町の虐殺事件を引き起こしている。」と。以下論文
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/669-02.pdf
このように書かれていて、「収容所方面に送られて行く途中…」という場所は現在の船橋市の本町7丁目に所在する「天沼弁天池公園」であり、この公園は昭和40年に沼池であったところ埋め立てて公園にしてあります。
そして、「[ルポ]関東大震災の虐殺から93年、70年間続いた朝鮮人慰霊祭」の記事によれば、「(現在、船橋駅前の天沼弁天池公園)を掘り起こしてみると、遺骨が出てきた。以降、同胞たちは船橋市との交渉を通じて1962年に現在の位置に慰霊碑を移した。」と書かれ、「軍・警察、自警団によって6000人を超える朝鮮人が虐殺されたと推定される。日本の警察は「朝鮮人の保護」を名目に多くの朝鮮人を当時日本陸軍騎兵連隊がいた千葉県習志野に集団収容した。しかし、収容所ではまた別の虐殺が待っていた。軍が収容者の中から「不逞鮮人」を選んで直接殺害したり、周辺の村人に引き渡して虐殺を勧めたのだ。」と記されています。
つづく
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