開戦に「栄光の歴史を閉じた」とは

 ある方のブログ記事に1923年関東大震災直後の9月6日千葉県野田市福田村の三ツ堀付近で、香川県から行商に訪れていた人たちの話す言葉が讃岐弁であったことから、その人たち、15人を朝鮮の人たちと見なし、行商団の一行のうち、妊婦を含む9人の人たちが福田村の自警団と隣村の柏の田中村の自警団の手によって虐殺され、遺体を利根川に遺棄したという実際に起きた事件を扱った森達也監督作品「福田村事件」を見られブログ記事にされていたので、この事件には多かれ少なかれ、船橋海軍無線電信所もかかわっていたと十分に考えられるとコメントを書かせていただいたら、今朝になってブログ記事を削除されていた。
 その私のコメントだが、参議院議員・社民党首の福島みずほ氏の国会質疑の模様も書かれている社会新報(6月28日付け)のリンクも載せさせていただいていた。

  福島議員は6月15日の法務委員会において100年前の1923年9月に起きた関東大震災時の朝鮮人虐殺をめぐり、歴史的文書を提出され、政府の責任を但し、当時、内務省警保局長から全国の地方長官宛に送られた電信文(23年9月3日)を示し、「文書の保管は防衛省がしていることを確認させてほしい」と質問され、これに対して、防衛省の安藤敦史防衛政策局次長は同省防衛研究所戦史研究センター史料室で保管していることを認めたものの、
(公文書の内容)

「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」と書かれてあり、当時、1923年9月3日に千葉県船橋町(現・船橋市)の海軍送信所から発せらたことも記されていて、これが虐殺事件に繫がったことも追及されたが、公文書もあるにかかわらず、政府は従来通りの「記録が見当たらない」との逃げの答弁に終始している。

 わたしは、現在、船橋市行田にある上記の無線塔記念碑の碑文には「関東大震災の時には多くの人を助けた…」との記述はあるが、船橋市を含む千葉県内で起きた朝鮮人虐殺福田村事件検見川事件などの虐殺事件には一切、触れていないことから、この碑文に関し船橋市の教育委員会千葉県公園緑地課に問い質しているが、はっきりとした答えはいまだに返ってこない。
 下の碑文を読めばわかるが、「栄光の歴史を閉じた」と、まるで「戦争美化」の文章で帰結している。

 そして、たびたび書くが、この記念碑には文章を記した人の名前も団体名も記されていないことだ。これがはたして記念碑文とよべるものなのか疑問でもある。

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