海軍船橋無線電信所記念碑の問題

 海軍船橋無線電信所の記念碑というのは昭和46年(1971年)に船橋市にある県立行田公園が造られた時に一緒に造られたと考えられますが、問題は、その碑文なのですが、朝鮮人虐殺については一切触れず戦争賛美美談にしか私には思えるのです。

 そして、まず、「大正5年…..広く平和的にも利用された…」とありますが、大正5年(1916年)と言えば、第一次大戦が始まった年でもあり、すでに、日本は明治維新から10年もたたない1875年江華島事件を起こし、軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(1894年)でした。そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃=ミンピ=)を殺害し、遺体を焼き捨てるという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。

 ここまで読んだだけでも何が「平和的」なのだと私は思います。さらに続きがありますので、赤旗の記事でもお読み下さい。

 そして、当時の大正天皇と後の昭和天皇も作刀が許され腰に刀を提げ、チンは神なりと時の政府を見下ろし、又、政府もこれを利用して、好き放題に朝鮮半島の人たちを日本に強制的連れてきて低賃金で3k労働を強いていたのです。

 さて、無線所の記念碑ですが、今年の7月に船橋市における朝鮮人虐殺に関してフィールドワークがあり、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の平形千恵子さんが船橋海軍無線電信所の記念碑を韓国の人たちと訪れられて、『「朝鮮人が暴動を起こす」といった流言がちまたで飛び交っていた大震災2日後の1923年9月3日に発信したこの電文は、流言がさらに広まるきっかけを作った。「流言をさらに流した責任は船橋にあります」と、そして、「当時、送信所の所長(大森良三大尉)は朝鮮人に襲撃されると思い込み、地元の自警団にも「朝鮮人を殺していい」と伝えて、自警団は「殺したら褒美がもらえると思った」』と…

 ところで、私は今日お昼前に、この記念碑を造った千葉県庁の公園緑地課に電話を入れて抗議と共に、記念碑文の書き換えを要請しました。その内容は録音していますので、後日、公開します。

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