自警団に命じた軍

 まず、今回の記事のはじめに月刊「新聞うずみ火」の購読を始めました。

 今回の内容は「うずみ火」7月号の記事の中から栗原さんの取材記事の一部として船橋の部分を紹介させていただきます。

船橋・習志野・八千代・千葉の現場歩く
          (デマを広げた電文
『JR船橋市駅北口からほど近い天沼弁天池公園。家族連れで憩うこの場所で38人の朝鮮人が自警団に虐殺された。



「当時、北総鉄道鉄道建設工事で各地に飯場があり、約150人の朝鮮人労働者が働いていました。38人は鎌ヶ谷の飯場にいた人たちで、針金で後ろ手に縛られ自警団に海軍の船橋無線電信送信所に連れていかれます。しかし、海軍に拒否され、駅近くの船橋警察署に行く途中、500人ともいわれる群衆に襲われました。 船橋では3日から5日にかけ自警団による虐殺事件が多発。犠牲者の多くが北総鉄道建設に従事する労働者だった。 行田公園は送信所の跡地だ。通信が途だえる中、送信所は3日朝、内務省警保局長の地方長官宛電文を打電した。 
(下・流言飛語のデマ電文)

(東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、すでに東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし)

 「公文の電波をうそだと思うでしょうか」と平形さん。この時送信所長(大森良三大尉)は「朝鮮人が攻めてくる」と訴え、警棒団に送電所を警戒するように命令。武器も渡し「朝鮮人は殺していい」と伝えていた。当時の警棒団長が後年、実行委に証言した。褒美をもらえると思ったのに裁判にかけられたと。一方、当の所長(大森良三)は何の罪にも問われなかった
 園内の碑には「1923年の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた」「昭和四十六年、解体され、栄光の歴史を閉じた」と刻まれている。すぐ近くで虐殺があったことはもちろん、デマの発信源だったことは一行も触れられていない


 船橋地域で亡くなった人たちの慰霊碑は市立馬込霊園にある。「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」。戦後間もない47年、在日朝鮮人連盟の支部や朝鮮人有志が建立した。
 慰霊碑は元々、市内の火葬場にあり、63年に移転する際、ここに移設された。その時、慰霊碑の下に遺骨がないことがわかった。後に、当時の警官が「朝鮮相愛会が現場を調査に来るというので掘り返して火葬した。骨の始末がつかないのでやむなく周辺の田んぼに埋めた」と証言した。隠蔽されていたのだ。地域の老人が「仏壇の中に地図があるからそこを掘れ」と話していることがわかった。言われた通りに掘ると約100体の遺骨がでてきたのです。」…ここまで』
 
 船橋でいったい、何人の朝鮮の人が虐殺されたのでしょうか。千葉県内で最大の朝鮮人虐殺といわれる所以がここにあり、兵站の街だという事も良くわかります。
 さて、せんだって、船橋市議の朝倉幹晴氏のYotubeアカウントにコメントを入れさせていただいています。彼は船橋無線送信所跡地の近所に住まわれていることから、無線塔記念碑についても話されていますが、朝鮮人虐殺については話されていません

つづく

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