船橋(市)の場合の朝鮮人虐殺について①

 まず、最初に2023年9月1日に起きた関東大震災によって、不安になった当時の東京市民のあいだや新聞紙上において「流言卑語」やフェイク記事がでまわりました。そして、昨日も見本として「不逞鮮人が横浜で戦闘開始」などのデマ号外記事を載せました。ちなみに、下の記事は全部デマ記事です。

 それらに併せるように当時の政府の内務省警保局長全国の地方長官宛に9月2日に電信文が作られ、船橋まで使いを出して、9月3日に船橋町(現・船橋市)の海軍送信所から発せられられたのです。
内務省警保局長より各地方長官宛電信(船橋海軍送信所

その電信文の内容は「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」と記されています。
 そして、その当時の千葉県地方長官というのは1922年から千葉県知事に就任していた斎藤守圀という人物という事がわかります。

 そして、この斉藤知事はピンはね問題の野田醤油争議にも拘り、いわゆる当時のタコ部屋(労務宿舎)の撤廃・廃止をさせて一応は和解をさせていたのですが、しかし、問題はここからでしょう。関東大震災が起きたのは9月1日です。ちなみに斉藤知事の経歴というのは警察部長や内務書記官、警保局警務課長兼衛生局保健課長などなどの経歴者でもあります。
 従って、上の流言飛語の電信文にはあたりまえのように従ったと考えられるのです。
 そして、当時の船橋海軍送信電信所の所長でもあった田中茂支 中佐(1923年2月14日 - 1927年12月3日)は、いわゆる、斉藤知事の指示を受けて自警団に「送信所が襲われる」から朝鮮人から守れというような事を伝達し、自警団は竹槍、とび口、日本刀などで武装し、送信所の近く(塚田)にあつたとされる、東武野田線(北総鉄道)の朝鮮人敷設労務宿舎に住んでおられた人たちを拘束し、警察署に連行中の途中で天沼弁天池にさしかかると、不安にかられて「虐殺」行為に及んだという事でしょう。中には女性も子どももいたとされていて、池に投げ込んだとも…そして、当時、船橋市本町7丁目にあった池は昭和40年に埋め立てられて現在の公園になっていますが、この地から虐殺された朝鮮人の方たちの遺骨も発掘されているのです。
(つづく)
 (武装している当時の自警団の見本)

上、当時の天沼池

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