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【#6】fashion history - 世界的ラッパーから愛されたからadidas

ドイツ発祥の世界的スポーツメーカーであるアディダス。

1920年、ドイツのニュルンベルクにて靴職人の息子として生まれた、アドルフ・ダスラーとルドルフ・ダスラーの2人が共同で資金を出し、靴製造の会社「ダスラー兄弟商会」を設立した事でスタート。

(ちなみに、兄・ルドルフが立ち上げたブランドがPUMA。)

60年代にはバスケット向けの「SUPER STAR」

1969年、スーパースターはバスケットボールシューズとしてデビューした。シェルトウの名称でおなじみのラバーのトウキャップをプロテクターとして採用することで、フットウェア業界に革命を起こす。

70年代にはテニス向け
「アディダス スタンスミス」

現在でもなお、一番売れていると言われるスニーカーと言われる不動の人気モデル。

通算100勝を誇る70年代アメリカの国民的テニスプレーヤー・スタンスミスをモデルにして、1971年に「アディダス スタンスミス」誕生。実際にスニーカーのタンの部分にはスタンスミス選手の顔が入る。

80年代で音楽とファッションの融合にRUN DMCが火付け役

音楽とファッションの結びつきを強くしたこの時代は特に世界的ヒップホップグループ・RUN DMCがアディダスを着用したことで、アディダスがヒップホップファッションの定番モデルに。

ストリートウェアでステージに上がった初めてのラップグループこそ、Run–DMCだ。ジャージが衣装に変わったのだ。

D.M.C.のインタビューにもあるように中でもJAYがスタイルを確立している。

グループを始めて2回目のショーに出る前、僕とRUN(ジョセフ“RUN”シモンズ)の2人がJAY(ジャム・マスター・ジェイ)を迎えに、彼の家まで行ったんだが、ドアを開けたJAYが黒いアディダスのジャケットにデニム、白ベースに黒の3本ストライプが入ったスーパースターを紐なしで履いてたんだよ。

頭にはゴッドファーザーがかぶりそうな大きい黒い帽子。そのスタイルを見て、俺とRUNは「RUN-DMCのアウトフィットは、これで決まりだ!」って言い合ったんだ。JAYのおかげでRUN-DMCのスタイルが生まれたんだよ。

By Winsome Li (GQ)
2016年5月23日

「My Adidas」というスニーカーについて歌った曲も彼等のヒット曲。スポーツ選手以外で初めて、アディダスと契約を交わす。

彼らは2016年、グラミー賞の特別功労賞を受賞した。ヒップホップのグループとして同賞を授与されるのは、RUN-DMCが初であり、彼らこそまさに“スーパースター”である。

その後は、ストリートスケーター向けのadidas skateboardingや、ストリートファッション向けのadidas originalsなどの新ラインを立ち上げつつ、ヨウジヤマモトやRAF SIMONSなどの超人気ブランドとのコラボスニーカーも世に出してきた。

NIKEと永遠のライバルadidasとも言われる
世界的スポーツメーカー。

今やオシャレなファッショニスタの中でも
外せないアイテムとなっているのは
スーパースター達に愛されてきた
歴史がその地位を確立させているようだ。


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