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二人の神は時を同じくして死にけり


神はどこにいるのか

「神は死んだ」
ニーチェはそんなことを言ったらしい。究極の理想であり、道徳の規範でもあった神の死の宣告は当時の人にとって、とてつもなく大きなショックだっただろう。
生まれた時から科学と経済が神であり、秩序あるように見える世界を与えられ、そこで生きてきた自分には他人事だと思っていた。
しかしそれは同時に、よく見ればそれもただの数ある内の一つの張りぼてだということを、量子力学や経済の見せる負の面をきっかけとして、多くの人々が気付いている世界でもあることを知った。
そのような世界の合理性を説明する存在としての神を相対化し対自することで、神はただの一つの物差しになる。それが学問をすることの楽しさであると考え、再び大学に入り勉強するという道を選んだ自分がいる。
しかし神を失ったものに残されるのは、すべてに意味を持てない虚無感に苛まれるか、新しい神を見つけるかの二択なのだと思う。(それを超越する考え方もあるのだということを理解しつつあるけれど、それはまたの機会に。)
そんな絶対的な神を持てない不安定な世界の中で、自分は無意識の内に神を求めていたようだ。

神を作り上げる

自分にとっての合理性の説明を担う完璧な存在である神を気付かないうちに作り上げてしまっていたことに気づいたのは、その感性や価値観、世界観を素直に素晴らしいと思える友人との会話の中のある言葉だった。
「自分の良い面しか見ていないのではないか。そんなに正の面しかないような人間に見えるのか。完璧に見えるのか。お気楽だとでもいうのか。」
言葉はそのままでないが、そのようなことを言われたと思う。その言葉を聞いた時、記憶の中で鈍く疼くものを感じた。
高校生のある時期、すべてが正しくないように感じ、自分の正しさのみを信じて孤軍奮闘を繰り広げていた。しかし、そんな中でも一人尊敬していた女子の同級生がいた。その同級生の言葉に幾度も救われ、その行動する姿に感銘を受けた。卒業も近くなった頃、彼女と思い出話などをしつつ、僕はありのままの敬意を彼女に伝えた。
その時彼女は言った。
「私はそんなにすごい人間じゃない。」
当時はそれを謙遜くらいにしか捉えていなかった。
しかし、最近の友人との会話の中の言葉が引き金となり、その言葉がフラッシュバックし、その言葉の本当の意味が分かった気がする。
当時正しさをどこにも求められなかった自分は、希望の光で彼女を照射し、その虚像としての神を欲し、見ていたのだと思う。
すなわち僕は彼女自身を見ることが出来ていなかった。
一人の人として弱さや苦しさも抱えていたのに、自分の正義のよりどころのために作り上げられた完璧な神の像を当てはめ、その姿を正しく見ることが出来なかった。彼女に対しては本当に申し訳ないことをしたと悔やまれる。もちろん考えるきっかけを与えてくれた友人にもまったく同じ過ちをしてしまったのだと思う。大学で勉強する中で多くの世界と神が崩れ、新しい秩序を求めていた自分は、拠り所を求める弱い自分は、友人を神に仕立て上げてしまっていたのだろう。そのことに気づいたとき、同時に二人の神は死んでしまった。

神の所在

常にすべての価値観が相対化される世界に神の居場所はあるのだろうか。神を持たない弱い人間はどうすればいいのか。そのことに対する答えを自分は探し求め続けてきたのかもしれない。虚無感に包まれて死ぬのか、刹那主義に身を委ねるのか、はたまた絶対的な神と出会うのか、または他の道があるのか。どうすればいいかは分からない。ただ自分の弱さを見つめつつ、迷いながら、あわわくば楽しみつつ、その道のりを行くこととしたい。神を安易に人の中に見ず、完璧な人間などいないということを胸に刻み、自分が尊敬する人こそしっかりとその姿を捉えたい。



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