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和歌山県 神社巡り(6月17日)➁ 伊太祁曽神社 ときわ山古墳の切通し


伊太祁曽神社

●五十猛命
別名は大屋毘古神
その御由緒で
イソタケルは誤りで
イタケルだと明記している
射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる

禍津日神と同一神とされる)

大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと)
姉神 大屋津姫命

● 都麻津比賣命 (つまつひめのみこと)
妹神 抓津姫神、抓津姫命
爪津姫神、枛津姫神、枛津姫命などと
表記する

オオヤツヒメの神名の「ヤ」とは、
家屋の事であり、
彼女が樹木を司る神であると同時に、
樹木から作られる建造物、
家屋や船などの神である事を
示している。

ツマツヒメの「ツマ」は
建物を築くために製材した材木を意味する。

粥占いの神事をされているんだ!

あら!お留守番してたのね!
ありがとね

おお!ここにも、イソヒヨドリ!

櫛磐間戸神社

神名の意味は、
クシは「奇し」で美称、
イハは堅固の意、
マトは「真門」の意とされている。
 櫛石窓神・豊石窓神は
『古事記』では同神の別名であるが、
『古語拾遺』(平安初期成立)や
『延喜式』(平安中期成立)では、
それぞれ別々の神と
見なされている。

 忌部氏の伝承を記した
『古語拾遺』の天の石屋の段では、
石屋から引き出した天照大神を新殿に遷し、
「豊磐間戸命」と「櫛磐間戸命」が
その殿門の守衛を務めたとあり、
ともに、忌部氏の祖神である
太玉命の子神とされている。

いわゆる、随身門の
二神ということです


わたしが驚いたのは
この鳥居の向かい、ですよ!!

こちらのブロガーさんに
詳しい写真が掲載されています

奈良時代初期築造
直径16mの円墳

古墳よりも
切り通しの地層だよ!!

「木」ですよ!!

オォ?""(°͈ᗜ​°͈ )Ξ( °͈ᗜ​°͈)""オォ?

木に見えるけど
触ると、すでに「土」
木が、土と化した地層!!

粘土に近い

●古事記は、712年
『古事記』の原本は現存せず、
いくつかの写本が伝わる。
成立年代は、
写本の序に記された年月日
(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))
により、
8世紀初めと推定される


画像お借りいたしました
歴史のまとめ

ということは
「奈良時代」ということですね

『日本書紀』は
養老4年(720年)に編纂された

絵は、
江戸時代後期の
伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)付近の風景です。
同社は、
平緒王子と奈久知王子の間、
山東盆地のほぼ中央に位置しています。

熊野古道には直接面しておらず、
東へ約三〇〇㍍離れたところにあります。

 祭神は、五十猛命(いたけるのみこと)、
大屋津比売命、都麻津比売命で、
伊太祁曽三神と呼ばれています。
五十猛命は
わが国に木種をもたらした木の神さまです。

 絵図をみると、
神社の鳥居前町(小字宮ノ前)には
茶店や宿屋が建ち並び、
参詣客らでにぎわっています。
一の鳥居をくぐった左側には
「岩戸」と記されています。

そこには
伊太祁曽古墳群と呼ばれる
三~四基の円墳があり、
横穴式石室の古墳があることは
江戸時代から
広く知られていたようです。

 二の鳥居をくぐり、
朱に塗られた太鼓橋を渡り、
石段を上がると、
拝殿の正面「本社」に
五十猛命、
左脇殿(右側)に大屋津比売命、
右脇殿(左側)に都麻津比売命が
祀られています。

三神はともに
現在の日前宮の場所に
鎮座していましたが、

その地を譲って
山東へ遷座したといわれています。

関西大学非常勤講師 額田雅裕
画=西村中和、彩色=芝田浩子
(ニュース和歌山/2023年6月10日更新)


江戸時代後期の絵図には
すでに
ときわ山古墳の脇に切通しができています

熊野古道 紀伊路(布施屋駅~海南駅)
切り通しは
この道の一部のようです

熊野周辺は、
日本書紀にも登場する
自然崇拝の地であった。

熊野三山は、
天皇から貴族、庶民に至るまで
あらゆる階層の人々の信仰を集め、
皇室で参拝したのは、

平安時代中期の延喜7年(908年)に行われた
宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。

熊野御幸とは、
上皇の熊野詣のことで、
弘安4年(1281年)の
亀山上皇の熊野御幸まで、
その期間は、374年間、94回行われた。

熊野古道は
平安時代の908年から!

と、すると
ときわ山の切り通しは
その前に
人工的に造られたもの
ということになる



この中の文章に
古事記の
大国主神の神話中のこの段が

「大き樹を切り伏せ」

「矢を茹めて其の木に打ち立て」
「其の木を析きて取り出して活け」

と、木が題材に取られていることに関わる
と考えられる。

また、

キ(乙類)が
オクツキ(墓)や
アラキ(殯)のキ(乙類)への連想を伴う
という見方により、
根の国への入り口が
木国の大屋毘古神と結びついている

とする説がある。

 なぬ?

最初、日前神宮の鎮座地にあった
伊太祁曽神社は

亥の森へ移動し

和銅6年、713年
現在地に遷座

我が国に樹木を植えて廻り、
緑豊な国土を形成した神様である
と記されていたのは

日本書紀!

日本書紀は、720年

ということは

この記述は
すでに、現在地に遷座され
その時
ときわ山や遷座地の地層が

その昔、大量の大木が倒れて
そのまま、地層と化していることを知り

木の神様、五十猛命の遷座地として

これは
打ってつけ!と思ったのではないか!?

和歌山県に定住した理由に
なったのではないか!?

後でご紹介しますが

境内地の中にも
この地層があるのだ!



紀ノ川は
日本では一番長い断層線である
「中央構造線」を掘りこんで流れている。

下の図。

この断層線は
諏訪湖から南アルプスの西側を通り
豊橋から伊良子岬の北側を通り
伊勢市にいき、
紀伊半島を横断し
淡路島の南から四国へ行く。
四国では吉野川が
この構造線に沿って流れている。
中央構造線は地質の境目でもある。

構造線南側には
三波川(さんばがわ)変成帯がある。

この変成岩の中で有名なのが
結晶片岩で、
この辺りでは「青石」と呼ばれている。

この神社は青石地帯にあるのだ。





鳥肌が立った!

ネットには何も書かれていない

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