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【山形】出羽三山参り、山形県の神社、寺院 ➄2017年、鳥海大物忌神社 吹浦口宮

山形道を酒田インターまで。
目の前には、鳥海山です。
目指すは、
遊佐町の鳥海大物忌神社 吹浦口宮です。

わかりますか! 雲が笑っている!

これまた、幸先の良い!!

鳥海大物忌神社 吹浦口宮

山形県飽海郡遊佐町にある神社。
式内社(名神大社)、出羽国一宮。

鳥海山頂の本社と、
麓の吹浦(ふくら)と蕨岡の2か所の
口之宮(里宮)の総称として
大物忌神社と称する

出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる
鳥海山を神体山とする。
当社は鳥海山の山岳信仰の中心を
担ってきており、
平成20年(2008年)3月28日に
神社境内が国の史跡へ指定されている。

大物忌大神
主祭神。
記紀には登場しない神で、謎が多い。
『神祗志料』や
『大日本国一宮記』では、
大物忌大神と倉稲魂命が
同一視されている。

豊受姫命

月読命 - 吹浦口之宮で祀られている。
月山神


社伝によれば、
第十二代景行天皇の御代当国に現れ、
神社の創祀は
第二十九代欽明天皇二十五年(564)の
御代と伝えられている。
鳥海山は活火山で、
噴火などの異変が起こると
朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。
本殿は山頂に鎮座し、
麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が
吹浦と蕨岡の二ヶ所に鎮座する。
 大物忌神社は
貞観四年(862)十一月官社に列し、
延喜式神名帳には名神大社として、
吹浦鎮座の月山神社と共に
収載されている。
後に出羽国一之宮となり、
朝野の崇敬を集めた。
特に歴代天皇の崇敬篤く、
八幡太郎義家の戦勝祈願、
北畠顕信の土地寄進、
鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など
時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
 中世、神仏混淆以来、
鳥海山大権現として
社僧の奉仕するところとなったが、
明治三年(1870)神仏分離に際し
旧に復して大物忌神社となり、
明治四年(1871)五月吹浦口ノ宮が
国幣中社に列したが、
同十三年(1880)七月に
山頂本殿を国幣中社に改め、
同十四年(1881)に
吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、
隔年の官祭執行の制を定めた

昭和三十年(1955)に
三社を総称して現社号となる

山頂の御本殿は、
伊勢の神宮と同じく二十年毎に
建て替える式年造営の制となっている

現在の御本殿は
平成九年(1997)に造営された。
 平成二十年(2008)には、
山上本殿から口ノ宮にいたる
広範な境内が、国の史跡に指定
された。

(境内の掲示より)


いわゆる、遊佐町全体が、
ご神域、といっても過言ではありません。


かなり急坂です。

風神社  祭 神:志那都比古命 志那都比売命

吹浦の社については、
元禄16年(1703年)に
芹沢貞運が記した
『大物忌小物忌縁起』
において、
景行天皇のとき出羽国に神が現れ、
欽明天皇25年 (564年) に
飽海郡山上に鎮まり、
大同元年 (806年) に
吹浦村に遷座した
とある記述があり、
現在の社伝は
この吹浦の創建についての伝承を
踏襲しているとされる。
なお、大同元年は
空海が唐から帰国した年にあたり

東北の多くの寺社で
創建の年とされているという。

『日本三代実録』
貞観13年(871年)5月16日の
条にある
出羽国司の報告
から、
飽海郡山上に大物忌神社があったことが
確認できるが、
大物忌神社の鎮座地は
飽海郡にある山の上とあるのみで、
上記の吹浦についての言及はない。

創建に関する吹浦の伝承として、

他に、吹浦の信徒が
蕨岡の勢力に対抗して、

宝永2年(1705年)に
寺社奉行所に提出した
「乍恐口上書を以申上候事」という
文書に、
慈覚大師(円仁)が開基したとの
記載がある

この記載は、
蕨岡に伝わる縁起に対抗する
意味合いが強かったと思われるが、
現在も吹浦には
慈覚大師直筆とされる
天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が
保管されている。


「卵生神話」が記されており、
「天地が混沌とした中から
両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、
大鳥の翼に乗って、
天竺から百済を経て日本に渡来した。
左翼にあった二つの卵から
両所大菩薩が、
右翼にあった一つの卵から
丸子元祖が生まれ、
鳥は北峰の池に沈んだ。
景行天皇のとき、
二神が出羽国に現れ、
仲哀天皇のとき、
三韓征伐で功績をたてたので、
正一位を授かり勲一等を得た。
用明天皇のとき、
師安元年6月15日に、
二神は飽海郡飛沢に鎮まった」
という。

丸子氏は、遊佐町丸子に住み、
鳥海山信仰に大きな影響を与えた
一族である可能性があるとされる。

貞観6年(864年)、
慈覚大師(円仁)が
鳥海山から五色の光が放たれているのに
気づいて、登ろうとすると、
青鬼と赤鬼が妨害したので、
火生三昧の法で対抗したところ、
鬼は観念して、
今後は鳩般恭王として大師に従い
仏法を守護すると誓ったという。

そして、
円融院の代(969年から984年)に
朝廷から両所大菩薩と命名されたという。

「卵生神話」は
朝鮮の「三国遺事」や「三国史記」にも
記載があり

外来の伝承が存在したことが
推測されるが、
鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、
中世に成立した「鳥海山」の名称と
関連していて、
現在も地元に伝わる霊鳥伝説とも
つながりを持っており、
中世から近世にかけて
成立した伝承である可能性が高いと
される。

永正7年(1510年)の
『羽黒山年代記』では、
鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、
欽明天皇7年(546年)に
神が出現した後、
貞観2年(860年)に、
慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を
退治した後、
山の外観が龍に似ているとして、
龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に
権現堂を建て、
寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、
さらに、鳥の海に因んで
山号を鳥海山としたとされており、

卵生神話の記載はないものの、
上記の「大日本国大物忌大明神縁」と
共通する内容となっている。
なお、現在の龍頭寺は
大同2年 (807年) に
慈照上人が開いたとされており、
上述の空海の帰国の年に
合わせられているほか、
慈照上人の実在が確認されておらず、
慈覚大師(円仁)の錯誤である
可能性もある
が、
『羽黒山年代記』の貞観2年に
開かれたとする記述とは
年代が離れている。

ウィキペディアより



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