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【宮城】五十猛命さまを訪ねて 新羅、諏訪神社 宮城県登米市

今回は、東北道 築館インター下車し、
登米市内に入りました

駐車場はありません。
そばの農家さんに
迷惑がかからないように、
停車させていただきました。

新羅(しらぎ)、諏訪神社

五十猛命、建御名方命

諏訪公園のそばにあります。

神社の由緒の石碑ですが、
まったく文字が読めないほどです。

青麻(あおそ)神社 
天之御中主神・天照大御神・月読神を
主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。
主祭神三神はそれぞれ
星神・日神・月神であり、
神仏習合の時代には
大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩と
していた。

後陽成天皇の御代、文禄元年(1592)

ここです!!

近江の国(滋賀県大津)
圓城寺(三井寺)門徒の
圓城寺大徳圓快阿闍梨は
黒沼邑に流行していた疫病の退散を
祈祷するに当たり、
この地に新羅山圓城寺を造営し、
新羅明神を勧請した。

「慶長2年(1597)新羅神社縁起」
元和8年(1622)
吉野坊が諏訪明神を奉齊して
当地に至り、圓城寺に合祀した。
寛永5年(1628)
高泉長門定康が黒沼邑に移封となり、
諏訪明神を崇敬して
高泉家の守護神とした。

正徳4年(1714)
大願成就を果たしたことによって
社殿を再建した。
その後、寺名は黒沼寺と改められ、
羽黒派修験に属していたが、
明治2年(1869)
神仏分離令によってこれを廃し、
新羅神社と改称した。
明治12年(1879)村社に列せられた。

移封とは、江戸時代に行われた
大名の配置替えのこと。
転封(てんぽう)ともいう。

園城寺(おんじょうじ)は、
滋賀県大津市園城寺町にある
天台寺門宗の総本山の寺院。
山号は長等山(ながらさん)、
開基(創立者)は大友与多王、
本尊は弥勒菩薩である。

日本三不動の一つである黄不動
著名であり、
観音堂は西国三十三所観音霊場の
第14番札所で、
札所本尊は如意輪観世音菩薩である。

また、近江八景の1つである
「三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には

三井寺(みいでら)として知られる。

当寺は7世紀に
大友氏 (古代)の氏寺として草創され、
9世紀に唐から帰国した
留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって
再興された

園城寺は平安時代以降、
皇室、貴族、武家などの
幅広い信仰を集めて栄えたが、
10世紀頃から比叡山延暦寺との
対立抗争が激化し、
比叡山の宗徒によって
園城寺が焼き討ちされることが
史上度々あった。
近世には豊臣秀吉によって
寺領を没収されて
廃寺同然となったこともあるが、
こうした歴史上の苦難を乗り越えて
その都度再興されてきたことから、
園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。

中世以降は
源氏など武家の信仰も集めた。
源氏は、源頼義が
園城寺に戦勝祈願をし、
三男の源義光が新羅善神堂の前で
元服するなどしたことから
歴代の尊崇が篤い。

新羅善神堂

新羅明神は三井寺の守護神として
祀られています。
「園城寺龍華会縁起」によると、
円珍が唐からの帰途、
老翁が船中に現れて
自ら新羅明神と名のり

教法加護を約したといわれています。
園城寺の五社鎮守のひとつ。

円珍とは

円珍の母は
弘法大師空海の妹(もしくは姪)に
あたる

19歳の時に国家公認の正規の僧となり、
円珍と改名した。
その後、比叡山の規定に従って
「十二年籠山行」
(12年間、比叡山から下りずに
ひたすら修行する)を終えた後、
大峯山や熊野三山を巡って
厳しい修行をする。
このことから後に
園城寺は修験道とも深い繋がりを
持つようになる。

https://www.thm.pref.miyagi.jp/wp-content/uploads/2020/05/SKM_654e20082217560.pdf


十六菊 神紋

菊と水の流れの文様を転用した紋で、
菊紋の一種である。
菊水とは延命の瑞祥的意義に
もとづくもの
で、
古来中国の伝説にある。
江戸以前は皇室と特別に
ゆかりのあった
伊勢、宇佐、上下賀茂などで
菊紋の使用が許されていた。 

と、あります。

五七の桐

白桐といわれたものが紋章となった。
聖王の出現を待ってあらわれる
瑞鳥鳳凰のとまる嘉木といわれ、
瑞祥的意義にもとづく。

平安・鎌倉時代、
桐・竹・鳳凰一組の模様が
天皇のみに用いられ、
黄櫨染の袍に織り込まれていたのが、
のちに桐だけが取り出され、
公的な天皇の象徴となった。

と、あります

仁王立ちしている狛犬さん

これですよ!「鹿」!

新羅、鹿で、ヒットしたのが、これ!

『日本書紀』
神功皇后49年3月条によると、
荒田別とともに将軍に任じられ
新羅征討に参加した。
『住吉大社神代記』でも
新羅征討の説話において記載。

鹿自体、「ろく」と
発することから「禄」、
いわゆる金をもたらすと
言われていて縁起のいいものです。

建御名方命の諏訪大社、上社の神事に、

春に行われる上社最重要の神事の
大御立座(おおみたてまし)神事
(御頭祭)
「鹿なくては御神事はすべからず」
いわれるほど、
上社の祭事には
鹿は欠かせないものであった。

中世の大御立座神事で供えられる
75頭の鹿の頭や、鹿角製の宝印等。

75頭の鹿の頭!!!

すごい生贄だ!(@_@)

諏訪においても、

熊、猿、カモシカ、山鳥、岩魚の
狩猟はタブーとされていたそうだ。

また、『播磨風土記』には、
稲籾を鹿の血につけると
一夜のうちに苗が生じたという
伝承があるそうです。(@_@)
        

黒沼城跡、黒沼館跡

寛永五(1628)年、
高泉長門定康が高清水から
黒沼村に移封、
宝永二(1705)年、
米谷に移封されるまでの約70年間、
定康、兼康父子二代に亘って
ここを居城としました。




画像お借りいたしました。

それにしても、まるで、シシ神さまです!(@0@;)

しかも、片方、落角したのか、
一角だけ!

柳津虚空蔵さんは、丑寅。

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