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後書き:当たり前の世界で当たり前のこと

この記事は先日投稿した「小説:当たり前の世界で当たり前のこと」(リンク)の後書きになります。元々は違うタイトルでしたが、この記事の投稿前にちゃんとした小説名をつけました。

実は本来は全く持って書く気がなかった物語で、気付いたら出来上がっていたという私の中ではかなり成り立ちが不思議な物語となりました。

まず、この物語の生まれについては、昔言及した思想が多様性として十分に認められ、その思想をもつ人々の地位が確立される同時に彼らも大多数的な発想を持つ人々に強要しなくなった場合にどんな世界になるのかを考えたとこからです。

そんなことを考えていくうちにシチュエーションごとの不具合が生じるように思えました。特に、その思想を持つ大人が親となった時にそれを子に押し付けたらどうなるのか。そこで、そのシチュエーション集を記事にしてみようという発想になりました。

結果的にそのシチュエーションが相互にある程度の関連を持ったら記事としてのクオリティがあがるのでは? と思いました。なので初めは「枕⇒シチュエーション⇒解説⇒シチュエーション⇒解説⇒シチュエーション⇒解説⇒まとめ」みたいな構成を想定していましたが、解説の部分を省き、物語タッチに変更することになりました。結果的に本来予定していた3区分に物語としての収拾をつけるために1つ足してあの形になりました。

内容としては結局はヒューマンドラマみたいになってしまいましたね。本当はただ傍観している様子を描く予定だったんですが、書いているうちに主人公である「私」の気持ちを書きたくなって書いていましたね。書き始めの書きはじめでは、傍観する主人公は他人という設定だったんですけどね。

今回、書いてみて一番思ったのは、多様性としてマイノリティを受け入れるのは良いと思うが、受け入れられてもマイノリティ側の人たちはマジョリティの中で暮らしていく中で、苦しい思いをするんじゃないかなと思いました。特に、それが良いと思って採択した人ではなく、初めからその教育を受けてきた人はそのギャップに苦しむのではないかな、と思いました。わかりやすく言えば、親の良いとしているモノを当たり前として受け入れてきた子供たちは外の常識を知った時にどう思うのだろうか? というのが要旨ですかね。

理解されて受け入れられても、それが当たり前にならない、(それがマイノリティがマイノリティたる所以ですが)、彼らはそんな毎日でその不一致に悩んでいるのかなって思います。受け入れる側は「うんうん、そういう考えもあるよね」っていうスタンスでいいですけど、受け入れられる側は家を出れば自分の認識が大衆的ではなくそれに悩む。それは受けられた世界かどうかは関係ない気がしましたね。

今回は特殊な成り立ちで文章を書いてみました。とても不思議な感覚でこういう書き方もあるかなーと思う物語になりました。またこういう感じで書いてみるのもありなのかなーと思いました。

写真:中華街入り口

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